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人生を振り返る勇気〜今ここに居ることの意味を考える〜


*ちょっと長めに書きました。
ゆっくり読んで頂ければ幸いです♡



僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る

高村光太郎の名言ですが、
私はそれに付け加えたいかなと。

君の道を
僕が歩く事はない

人生は人それぞれ。


今、あなたの目の前にいる人が、幸せそうに見えるかもしれません。
でも、その人でないとわからない辛さ、苦しさ、何か一つくらい持っていると思います。
あなたもそうでないでしょうか。

いくらお金があっても幸せと思えない人。
貧乏でも、心が満たされてる人。

あなたの人生はそんなに悪いものでないかもしれませんよ…。


私の実家は土木建築業、父はブルーカラーと言われる職業だ。
父は中卒で、鳶職だった祖父の仕事を始めた。
祖父は、遠山の金さんばりに身体に桜の刺青を彫り、作業着に地下足袋、酒タバコはやめられず、肝硬変で53歳にして亡くなった。
あの頃、私はまだ4歳だったが鮮明に記憶があり、今の私と同じ位とは思えないほど、老けていた。

その頃の土木業は、儲かっていた。
車はすぐ買い替えていたし、旅行も年に2、3回行っていた。
ただ、家族旅行ではなく親戚一同で、だ。

そんなに羽振りもいいのに、住む場所は県営住宅の長屋。
四畳半二間に、母の嫁入り道具の家具がひしめき、革のソファーが置いてある。テレビは無駄に大きく、ろくに聞く事もない最新型のコンポまであった。
寝る場所は、ものがない2畳ほどのうなぎの寝所。
小学校に上がるまで、電話もなかった。

母は、東北から集団就職で上京して、定時制の高校に行きながら、看護師学校に行っていた。
看護師になったものの、学生時代に知り合った父と結婚し、すぐ専業主婦になった。

父は6人きょうだいの長男。
まだ、1番下の弟は中学生だったと聞いている。
祖母は、趣味のように老舗の割烹屋で働いており、父の実家も自分の家庭と2つの家の家事を全て受け持っていた。

私は祖父母の初孫だった。
目立つ事が好きだった祖父は、幼稚園で必要な物もみんなと同じ物を購入せず、わざわざ違う物を購入してきたりした。
母は、忙しく家にいてもあまりかまってもらった記憶はない。
父は仕事しかできない人だったので、帰宅すると酒を飲んで早々に寝るだけだった。
父が私のしつけや面倒を見てくれた記憶もほとんどない。

祖父母も両親も、私にとても期待をしていた。
小さい頃から、あなたは筑波大か図書館情報大学に入っていい仕事につくのよ、と言っていた。
なんでこの2校かは、なんとなく察しがつく。
よく筑波山にいっていて、筑波という地名が身近だったということ、私が本が好きで図書館によく出入りしていた事。
そんな事だろう。

私は本が好きだった。
小説も好きだったが、きのこや宇宙の図鑑も好きな雑食だ。
母は2つの家の家事でヘトヘトだ。
専業主婦で、母が側にいるにも関わらず孤独を感じていた。
本に没頭する事で、その寂しさが紛れた。
本の世界で違う自分になったり、きのこの森を探検したり、宇宙の美しさに触れたり。
違う次元にいる事が楽しかった。

ピアノも習った。
幼稚園に来ていた音楽教室に通った。
私からやりたいと言ったと思う。
ピアノがどんどん弾けるようになると、これまた自分の世界に入り込めた。
好きな曲を好きなように奏でる幸せ。

貧乏長屋に住んでいるのにも関わらず、プレハブの私の部屋を作ってくれ、そこにピアノを置いた。
金銭面では不自由がなかったから、ピアノすら簡単に買ってくれた。
今考えると、プレハブの防音もしていない部屋で自由にピアノを弾く、ある意味公害だ。
県営の長屋であるから、隣の家にいわゆる「ヤンキー」のお兄さんが住んでいたが、何も言わなかった。
とても煩かったはずだ。
きっと、私の孤独とヤンキーのお兄さんの心の中の何かが同じに感じてたのだろうと、今になると思う。
あのお兄さんは、もうかなり年配になっているだろう。
会える事があれば、お礼と詫びがしたいと思っている。

お金に不自由はないから、やりたい事はなんでもやらせてくれたし、欲しいものも買ってもらえた。
その反面、忙しい母を見て「迷惑はかけまい」と心に誓った。
好きな事をさせてもらっている、母は大変なのだ、
いい子にならなければ、と。
祖父母も私を可愛がってくれる、だから期待に沿わないと、と。

でも、何か苦しかった。
私だけ、いつも何かが違う。
家も、持ってるものも、考え方も。

なんで、父は普通に会社に行ってないのだろう。
うちは、なんでこんな狭い家に住んでいるのだろう。
どうしてみんなと違う持ち物を持たされるのだろう。

みんなと同じがいい。
その一言も、忙しい母に言うことを躊躇っていた。

母は、私が満足していると思っていたと思う。
まだ若く、自分の子より父の兄弟の面倒ばかり見ていた母。

今だからわかる。
あの時、母は必死だったことを。

でも。


わたしは、母と話をしたかった。
一緒に笑いたかったし、褒めて欲しかった。
私だけを見ていて欲しかった。

それをグッと心に押し込め、母に喜ばれるように頑張った。
通知表を見て、母はとても嬉しそうだった。

勉強も頑張った。
クラス委員も毎回やった。

嬉しそうだったけど、褒めてはくれなかった。


私は、中学に上がるくらいまで指しゃぶりが止められなかった。
大好きなバスタオルの切れ端がないと眠れなかった。
よくある話だ。
今なら笑い飛ばせるが、私にとってこの二つは生きていく上の支えだったと思っている。

両親は酒飲みだった。
故に、よく喧嘩をしていた。
職業柄か、乱暴で取っ組み合いの喧嘩だった。
飛んできたガラスのコップが当たって、怪我をしたこともある。
その時、私を心配する前にお互い罪をなすり合っていたのを鮮明に覚えている。
そんな中に眠りにつく時の支えが、指しゃぶりとバスタオルの切れ端だった。
そんな支えがあっても、心は正直だ。
夜中に何かに怯えるように飛び起き、泣き叫んだ。
大人になってから知ったが、夜驚症という病気だったらしい。
両親は、寝ぼけていただけだと思っていたのだろう。
よく「こわいこわいが始まった」と特に気にも留めていなかったようだ。

小さい頃の記憶が無駄に残っている。
この「こわい」感じも鮮明に。
小さな粒にとてつもない重さがあり、押しつぶされるような。
大きなものが、落ちてきて潰されるような。
そんな恐怖感。
言葉で言い表すのは無理だ。  
今でも時々この恐怖感が襲ってくる事がある。
大人になって、コントロールできるようになったが。

中学3年の時の高校受験。
好きな所に行けばいいと、興味を持ってくれなかった。
結局、訳もわからず担任の言いなりで、行ける範囲の公立高校を受験した。
そもそも、親が受験を経験していないのだ。
相談しても無駄と言うものである。
好きにすればいい、一点張り。

大学もそうだった。
やはり、好きな所に行けばいいとしか言わない。
ただ、闇雲に受験する度の受験料は簡単に出してくれた。
私の世代は団塊ジュニアで、とにかく人数が多かった。
何をするにも競争率との戦いだ。
高校も人数が多いからか、教師へ相談しても今と比べたら格段に薄っぺらだった。
さらに我が家は、受験に興味がない。
期待だけが重くのしかかった。

残念ながら、行きたい大学は全滅だった。
ならば、ゲームに関わる音楽がやりたくて専門学校に行きたいと母に伝えた。
今まで好きな事をさせてくれていた母が、初めて口を出してきたのだ。

「短大でも良いから、大学と名の付く所に行け」
と。

反抗できなかった。
決まらなかったら、放送大学でもいいから、と
無知な事を言い出した。

二次募集で、運良く家政系の短大に決まったが、
行きたくも楽しくもやりたい事もできなかった2年間。
辞めたいと勇気を振り絞って切り出したら、顔面ビンタされた事を忘れない。

あの瞬間、早く家を出ようと決意した。

就活に積極的な学校でなく、学生は自分達で進路を決めていた。
私もいくつか面接に行ったが、不採用だった。

高校受験、大学受験、就職試験と不合格に慣れすぎて、何をしてもダメなんだ、という気持ちになった。
短大を卒業して、約1年バイトに明け暮れた。

そして、勝手に一人暮らしを始めた。

一人暮らしをするなら、仕事に就かないとダメだと思い、とある医療機器を扱う小さな会社に入った。

世間一般の給与金額や社会の常識が全くない状態で仕事に就いた。
安い給料で、サービス残業の連続、ボーナスも無し。
それも、世の中では当たり前だと思っていた。
そんな、ブラック企業の小さな会社は、私が仕事に就いて2年目には倒産した。

一人暮らしを始めても、父も母も特に止めたりはしなかった。
家にも来なかったし、連絡もしてこなかった。
私がどんな仕事をして、会社が倒産して、そんな事も今でも全く知らないだろう。

その後、偶然に出会った今の夫と結婚した。

夫は、優しかった。
私の全てを受け入れて、支えてくれた。

心を病んで自分に傷をつけた時も。
がんが見つかって落ち込んだ時も。
何も言わずに、私の話を聞いてくれた。
励ましや助言もなく、唯々耳を傾けてくれる。
それだけで、私は充分救われていた。

だからだろうか。
私は、夫に父母から得られなかった「安心」を得られたと錯覚した。
…錯覚ではない。
実際には、与えてもらっていた。

のにも関わらず。
私は夫を傷つけた。

結婚して、愛してもらい、安心して。
自分の欲しいものを全て得ようとした

当たり前だが、親も子も夫も。
元を辿れば他人だという事を忘れてしまっていた。
自分の思い通りに動いてくれると、錯覚してしまっていた。
愛されるても、満ち足りない心。

それは、きっと自分が誰かに愛された事に気づけなかったから。


子供が産まれて初めて、理解した。
あの頃の母なりに、精一杯の愛情を注いでくれていた事を。
私が世間で知らなかった事を必死に覚えたように、
母も必死だったのだという事を。

それでも、それでも。

私は父も母も未だ赦せないのである。
あの頃私の話を聞いてくれていたら。
たくさん褒めてくれてくれれば。
たらればでしかないけど、たったそれだけで
私はたくさんの事から救われていたはずだと思ってしまう。

大人になっても初めて、愛情をたくさん注いで育った事に気付けた事。
私は両親が健在である。
それだけは、こっそり感謝しよう。

私の人生は、すでに半分以上過ぎてしまっているし、心から両親を赦せてもいない。

だからこそ。

これからの人生で、巻き返しを図ろうと思う。
自分の子供を一人の人間として尊敬し、尊重して、毎日を楽しく生きたい。
生涯を誓い合った夫にを支え、恩返しをしたい。

そしてなにより。
私の両親を赦せるように。

そんな人生を歩み、後に生涯を締めくくりたい。

*こんな駄文に、長々とお付き合い下さりありがとうございました⭐︎


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