「純粋な美」

2020年に入ってから、ほとんど家にこもって曲を作っている。家の外で顔を合わせた人が一人もいない。だからといって、寂しいわけでもない。それなりに楽しんでいる。曲作りも、ゲームも。

ここ数日の話なのだけど、突然耳が少し良くなったような気がする。前まで聴き分けられなかった音の差がわかるようになったり、他の演奏に埋もれて聴こえなかった音が聴こえるようになった。

これによって、自分が作ったものになにが必要か、もしくは必要ないかが、浮き彫りになった。恐らくこれが、小さな前進であり、意味のある学習を経た、ということなのかもしれない。

最近、夜にペルソナ5というゲームをやっている。権力者に冤罪をかけられた高校生が、ひょんなことから能力を得て「心の怪盗団」になり、人々の欲望が具現化した場所「パレス」でその欲望の根源を盗み、欲深き人間の心を「改心」させる。

冒険の過程で様々な者が仲間になるのだが、その中に絵描きの「ユウスケ」というキャラクターがいる。

彼はいつも絵について思いを巡らせていて、様々な場面で、「これは絵のヒントになりそうだ」「純粋な美を描くにはどうしたらいいのだ」というようなことを口にする。僕は時々そんなユウスケを、自分と重ねて見てしまう。

僕はユウスケのような圧倒的な才能はないのだけど、「四六時中答えのない題材やヒントを探している」という点では同じだ。

サブイベントの中でユウスケは、その才能と不幸な生い立ちや見た目の良さから、金と権力を持った人間に「売れるには『物語』が必要だ。その『物語』を君は持っている。だから、生活を保証する代わりにこちらが希望したものを描かないか」といった内容の話を持ちかけられる。

しかしユウスケはそれを「薄汚れている」と切り捨てながら、同時にそんな判断をした自分に「本当にこれでよかったのか」と後悔し、そして「自分はただ描きたいと思って筆をとっていた頃の自分ではなくなってしまったのではないか」と迷う。

ここまでのイベントを見ていて、少し考え混んでしまった。僕はずっと、自分が生きていくためにできること、つまり自分が書きたいことを歌にしてきた。

けれど、ある期間の僕は、
「他人に気に入られるには」とか、「もっと人に効率よく観てもらうには」ばかりを気にして、「自分のどんな思いを作品にするか」を考える時間を、ずいぶんと削ってしまっていた。

それに僕は、「物語」と呼べるようなものを持っていない。し、それを「作る」ということにも抵抗がある。「物語を作ること」と「人を騙すこと」は紙一重で、その間で揺れること自体が、どうも純粋ではないように感じてしまう。

そして純粋であることは、個人的には美しいと感じるが、特別格好の良いものではないし、強く人を惹きつける要素としては弱いような気がする。

自分以外の人たちは、一体どんな心持ちで、物を作っているのだろう。僕は、ただ生きていたいけど、やりたくないことは、したくない。
気楽に生きていくことは難しいな、と日々感じる。

僕はとても後ろ向きで、大抵の他人は諦めているし、自分をさらけ出すことは僕のような低俗で醜い人間にとっては結局のところ嫌われる行為なのだ、と思ってしまうのだけど、そうではない世界もきっと、自分のコンフォートゾーンの外側には存在するのだろう、という気はしている。

ただ外側に出ていくことが、本当に良いことなのかはわからない。誰かに傷付けられるくらいなら、同じところで自分だけを高めていくほうが、自分に合っているんじゃないかと思ったりもする。

答えはない。

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