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おれの写真の作りかた

 おれの写真の作りかたについてご説明します。何度かムカイさんからご質問いただいたのでそれに応えつつ、写真を撮るときに考えていることのうち、わりと一般的じゃないかなという考えかたもご紹介しておきます。

(1)感覚を生かす
(2)視点を変える
(3)要素を捨てる

 基本原則としてはこの3つを覚えておけばいいでしょう。

 まずは同じ構図でとにかくたくさん撮ります。この写真のばあい同じシチュエーションで合計22枚撮ったうちの9枚目でした。

 たくさん撮ればいいものではなく、やっぱり「ハッ」と気づいた1枚目の打率がいいものだし、それが上がらないと一期一会のチャンスをねらう写真家としては根本的に困ったことになる。1枚目の打率を上げるためにたくさんの枚数を重ねて努力をしているというところがあります。

 とにかくインスピレーションがわいたら、被写体との関係が崩れないうちにどんどん撮ることがだいじです。被写体によっても許される時間の長さは変わる。野生動物なんかをやっているとほんとうに一瞬がだいじ。でもその動物がモモンガなのかカタツムリなのかで時間の使いかたは変わる。人ならストリートスナップはほんとうに人生のうちに1回しかない一瞬が勝負だし、渋谷の交差点で人の群れを撮っているならチャンスは何度もあるでしょう。


 1枚目は感覚まかせで反射的に撮りますが、2枚目以降は感覚に論理をくわえて撮っていきます。

 いらないものを画面外に動かす。自分が上下左右に動く。つまり立つ・座る・中腰になる。場合によっては腹ばいになる。脚立を出すこともある。

 この写真の場合、撮っているわたしのお尻には軽トラが当たっていてそれ以上下がることができませんでした。軽トラの荷台ギリギリまでスマホ本体を下げ、横からのぞき込むようにして撮影しています。

 向こうにイヌが写っていますが最初から入れようと思っていたわけではありません。作業中の人物に気づいて「撮ろう」と思ったわけですが、その後にイヌの存在に気づいて構図を考え直している。さらにボカすかボカさないか、ボカすならどのていどか。

 またウチの子どもがウロウロしていたのを近づかないようにうながしたりしている。被写体の人物とも会話をしながら。

 今回の被写体の場合関係性ができているのでやりやすいわけですが、撮られるのが苦手な人は、カメラを意識させると場が一瞬で崩れます。そのときはいったんカメラを下ろしたりします。さらにカメラを下ろすふりをして腰だめで撮ることすらある。隠し撮りに近い。

 隠し撮りというとヤバい響きがありますが、写真はすべて隠し撮りの要素を持ったものです。被写体の自己認識(「わたしはこうありたい」)とはちがった、撮影者の考え(「おまえはこうだ」)をカメラで表現するわけですから。

 話がそれました。そういう被写体を中心とした世界との交流を猛スピードでやっているわけです。撮る人が被写体を変え、被写体が撮る人の認識を変えるという相互作用を短い時間でくりかえします。優れたカメラマンはこれを撮影前からやっている。日常的にずっとやっているとあるていど無意識でできるようになります。

 ちなみに自分が被写体になる場合は基本的にはカメラを無視するのがいちばんです。そうするといい写真になりやすい。うちの子どもにはカメラにピースサインをするなと教えています。


 何かを一定の画角で撮る、切り取るということは、つまり世界のほとんどを遠慮会釈なく切り捨てるということです。

 写真撮影は捨てる技術です。俳句と同じ。あらゆるものを捨てていって世界観を先鋭化する。そんなわけで「写真」に真は写りません。写っているのはあなたの主観です。

 捨てる要素が決まらないときは広めに撮影しておいてあとからトリミングで切り取りなおす。トリミングは構図決定の先送りです。これはスマホカメラ時代になってとてもやりやすくなった。

 単体のカメラをわたしがほとんど使わなくなった理由はいくつもありますが、圧倒的な携帯性と高性能化にくわえ、色調整やトリミングが手の中で数秒でできてしまう編集機能もおおきな理由のひとつです。要素を捨てる作業がすぐにできてしまう。

 この写真の場合イヌは動かさずにその場にいさせました。iPhoneをポートレートモードにしてボカしてみると、あまり気にならないていどに収まりそうだったので。イヌも顔を上げたり下げたりしますのでそれにも気を使って撮影します。

 これはじつはかなり決定的な判断。今回のカモには関係のないウチのイヌですから。それが主役の人物とカモの関係やストーリーを邪魔してしまうことになります。ここでイヌを入れるのと入れないのとで写真のテーマが変わっているのがわかるでしょうか。最初は被写体が

「カモをさばく人物」

だったのが、

「人物がカモをさばいているウチの風景」

になっています。まったく別の写真になっている。22枚撮影している間にけっこうダイナミックな変更がこうしておこなわれていきます。

全部で22枚撮影したうちの9枚目が冒頭の写真

 捨てるのは色にかんしても同じことです。ファッションコーディネートの基本で肌とネクタイ、スーツ、シューズの色を合わせたりしますけど、色を減らせばまとまりがよくなります。そこにピンポイントで別の色相を加えると心にセンセーションが起きる。この写真の場合赤ですね。ベースにアースカラーと青があって、そのなかに帽子のワンポイントとカモの血がアイキャッチになっています。

 色にかんしては、通常はあまり異様なまでに色を調整することはありません。撮った写真と自分の記憶を比較して不自然にならないていどに調子を整えます。撮影場所や季節、時間の雰囲気を崩さないように暖色・寒色をつかいわける。おれは基本的にシャドー部分が完全に黒つぶれしないように、ハイライトが完全に飛んでしまわないように調整します。

 捨てるといえば色そのものを捨てるのがモノクロ写真です。人間はカラーの視覚情報にかたよった動物なのにあえて色を捨てて構図とグレーの階調だけで絵を作る。不自然といえばこれほど不自然な写真もまたないのですが、モノクロのことを「不自然」「レタッチしすぎ」という人はいないのが不思議なところです。

 人が感動する度合いはカラーか否かに関係はありません。情報量を減らし、かえって人間の脳を活性化させる。ほら俳句といっしょでしょ。

 色が感動の可能性を下げることはかなりある。ときどきおれもモノクロ写真をFacebookにアップロードします。

 都市化・画一化した日本の生活はフィジカルなダイナミックさに欠けるためモノクロ写真を撮るのは難しくなってきている気がします。素材感のとぼしい建築物も増えましたし。

 おれはモノクロ写真に見えてじつは微妙にカラーといういたずらをすることがあります。よほどの写真好きじゃないとスマホなどで見ている限り気づかないレベルで色味を残すんですが、サブリミナル効果的なものを喚起する実験です。そんなふうにスマートフォン+ソーシャルメディア時代の写真撮影を楽しんでいます。

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