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ムサシの朝市が和倉温泉に協力できないか

 今回の被災地で感じたのは、発災直後からまだ続いている街の停滞感だ。

 発災直後は「人命救助!」「必須の物資を!」「余震に注意を!」と生き残りをかけた時間が続いた。そこから3週間をへた今、被災地は本格的な復旧作業がはじまるのを待っている。目立った動きが出ない苦しい状況といっていい。

 足かせもある。七尾市を例にとると、石川県北部に位置する同市はクルマで1時間以上かかる金沢市よりさらに南の手取川から取水している。この水道管の漏水がひどく、県の見こみではまだ2カ月、ひょっとすると4月になる可能性がある。水がないと商店や飲食店は設備が地震による損壊をまぬかれても営業を再開できない。掃除も満足にできないので住民は自宅の復旧作業すらまともに取りかかることができない。

 高級温泉街の和倉温泉では、建築関連業者が下調べに入っている姿は見受けられるものの、街はもぬけの空だ。停滞ムードのまま今はひたすら耐えてすごすしかない。

 心の休まる時間もない。和倉温泉のプロモーションを担うななお・なかのとDMO(観光地域づくり法人)の遠藤敦専務理事に話を聞いた。時々風呂に入れるようにはなったが、家でビールを飲もうとすると「いま地震があったらどうするの」と奥さんに言われて踏みとどまったという。
 いまは遅遅とした歩みにただひたすら我慢が続いている。


 能登半島の先端部にある珠洲市を20日に訪れると、被災した街や村には人や動いているものが異様に少なかった。いくつか要因があって、そもそも過疎地域であること。また二次避難をしている人が相当数に上ること。この段階は民間の一般人が手を出せることが少なすぎることも原因だ。ボランティアの活動も一般的には始まっていない。倒れたブロック塀などボランティアにさっさと片付けさせればいいと思うが、需要と供給のマッチングが起きようがないのだ。

 犯罪者がうろついている、ブルーシートを設置する詐欺集団が横行している──といった噂は絶えない。そんななかボランティアを名乗る人々を信用できるのか、ボランティアが家を片付けようとしても家の人がどこにいるのか分からない。被災証明などを得ずに片付けていいものか、どこにガレキを持っていけばいいのか。なにもかもが不明なので一向に進んでいかない。

 災害の被災からの復旧はシステマチックになった。社会的にはしかたのないことだと思う。「この家屋はこういうダメージをこうむりました」という自治体なり政府なりのお墨付きがなければこの世の中は物事は進まないのだ。

 たとえば建物の損壊状況を判定する「応急危険度判定」が進んでいる。行く先々の建物で「危険」「注意」と大書きされた紙が家のドアに張られていた。こういう地道な作業は着々と進んでいるのだが、目に見える復旧、たとえば本格的な倒壊家屋の撤去作業などはまだ何ひとつ始めることができないのだ。

 いっぽうで先が見えない不安で、住民の心理的な負担は日に日に強まる。そこを加古川でわれわれが開催している朝市をイベントを持ちこんで心の平安を少しでも増やしたいと思うが、一足飛びにそこまで受け入れる余裕は現地にはない。職場も家も家族も失いかけているのだ。

 われわれが本格的な復旧が始まるまえにできるものといっては、炊き出しのマッチングくらいである。あとは被災者自身がニーズに気づきにくいものとしてセンサーライトの配布と設置を自主的におこなうくらいしかない。

小学校の仮設便所にセンサーライトを設置して安心感を高める。こういうものはいちいち避難所ニーズとしては上がってこないので現場を訪ねて自主的に、つまり勝手に設置する。

 このセンサーライトの配布というのもくせ者で、たんに避難所に持ちこめば配布されて有効活用されるかというとそうではない。前述したように住民の疑心暗鬼はあいかわらず続いていて、また長らく支援物資をもらい続けることにたいして遠慮する人も出てきている。われわれの持ちこんだセンサーライトは被災地で使うことも想定して作ってある。十全に活用してもらえれば、街のあちこちから暗がりが消え生活の安心感も増すはずだ。しかし大量に持ちこんでも、スムーズに受け入れが進み、スムーズに配布されるかといったらそれはまた別問題だ。避難所の倉庫に死蔵されて終わりということもありえる。


 たいへんなダメージを被っているのに、そこに3週間たっても熱気を帯びた活動がはじまらないというのは、われわれの作ってきた現代社会の複雑さじたいが復旧の足かせになっているということだ。

 比べるのもおかしいと思うが、もっとシンプルな社会と比べてみよう。たとえばフィリピンのマニラでスラム街(違法占拠民集落)の大火事を継続的に取材したことがある。このときはまだ煙がくすぶっている中でさっそく土地の陣取り合戦がはじまり、どこからか調達してきた材木でバラック小屋の再建がはじまっていた。こういったありとあらゆるものが「DIY社会」である場合、災害が起きても休むまもなく復旧がはじまる。毎日街は蘇生していき、20日もすれば新造の街がかなり再建されているのであった。


 今回もまた知人数グループにわかれて現地入りし、それぞれが各地に散って活動をしたのだが、発見があったのはわれわれの拠点のある和倉温泉の被災がおもったよりはるかに甚大であることだ。

 日本を代表する高級温泉街の和倉温泉は、「おもてなし日本一」で有名な加賀屋を筆頭に高級旅館が並ぶ。中型・大型の旅館が多く建物も5─10階建て以上の大型建築が多い。こうした大建築物は基礎がしっかりしているはずなのに、外観だけ見ても真っ二つに割れていたりビルごと傾いていたりと、建物の損傷度合いが素人目にみても激しい。一軒の大型旅館の中に入らせてもらった仲間の写真をみると、内部の壁の崩落や家具の破壊があまりにひどくて驚いてしまった。ある旅館経営者によると、今回の地震ではもっともひどい揺れがおよそ2分もの間続いたという。

 最高級旅館群がこれほど激しく損傷したのはなぜかというと、この和倉温泉はもともと「涌浦(わくうら)」と呼ばれた海中に沸く温泉だったのが大きいのではないか。今の温泉街もじつは埋め立て地である。これが今回異様に長く続いた揺れと建物の損傷の原因になったのではないだろうか。

 七尾市は和倉温泉にくわえて、「七尾四大祭り」といわれる大きな祭りを擁し観光業がさかんな街だ。わたしがたまたま能登半島地震の復旧ボランティアに入ろうとして拠点を確保したのが、たまたまこの七尾四大祭りの一つである石崎奉燈祭が行われる石崎町であった。

 おもえば、東日本大震災のボランティアに出向いたのは、わたしのたった1人の活動だった。南三陸町の漁師町で復旧作業に汗を流したことを思い出す。

 2024年の今回は、ムサシオープンデパート(MOD)朝市という有力コンテンツをわたしは持つようになっている。イベントではなく、地元加古川の人の日々の生活を豊かにするための「市場」を作ろうとして毎週1回の開催を課してきた。今回はその仲間がおり、500以上の過去の出店者たちから「被災地の復旧を手伝いたい」「炊き出しに行きたいがどうしたらいいか」という声をたくさんもらっている。

 和倉温泉を擁する七尾市は人口こそ6万人に満たないが、中核となる観光地と大きな祭りという有力なコンテンツがある。かならず強力な復興をしていくはずだ。ここに腰をすえて復旧を復興に向けていくために地元の人たちを支援していくのが、朝市というコンテンツを持つようになった株式会社ムサシができるいま最大の貢献かもしれない。

 産業が復旧・復興するにはまだまだ時間がかかる。その間に人々が息切れしてしまわないように。また東日本大震災でも熊本地震でも、地震から長期間たってからの自殺事件を経験している。こういう悲しい事例を防ぎ、大きな祭りを擁するコミュニティを復興に活かしていくためにも七尾市への協力がわたしの頭のなかで現実味を帯びてきている。

 大雪予報におびえていったん加古川に帰ってきた。また今週末から能登入りである。

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