【ゆきさんという男とは】

僕の産まれてから今までの半生を描いてみます!

【0歳〜幼少期】

1980年3月4日 春になるのはまだ遠くとても寒い日の朝にゆきさんと言う男はこの世に誕生する。

父は寿司屋を営み、母は寿司屋の女将さん的なポジション、2歳上に兄がいる家庭。父はスポーツ万能、特に野球に関しては中学→高校→大学→社会人になるまで全て野球推薦で入るほどの腕前。身長も高く本人曰くハリソンフォードを少しだけ和風にした感じらしい。性格は明るく誰とでもすぐに仲良くなれちゃう人だ。でも挨拶や勝負事に関しては厳しい人。母は、小柄で愛嬌があり、こちらも誰とでもすぐに仲良くなれちゃう人。寿司屋の看板女将で母親目当てのお客さんもいたとかいないとか。

寿司屋を営んでいるので当然土日も仕事。夕ご飯を家族みんなで食べることはほぼなかった。けれど、親の愛情は常に感じていた。

また、僕が動き回るころになると母親はお店の手伝いも始めるので、僕も自然とお店にいることが増えた。ハイハイでカウンターの下をウロウロしたり、宴会場の柱に下に落ちないようにロープで繋がれていたりしていたらしいが僕の記憶にはない!

幼稚園に入るくらいになると良く出前についていった。出前は母がする。母が運転していて僕とお寿司の桶が後部座席。そうなると自然に大好物のかんぴょう巻きに手が伸びるよね!wどんなにお腹がいっぱいでもかんぴょう巻きだけは食べちゃう。今でもかんぴょう巻きが好きだしね。

【少年期】

小学校に入ると学区の一番端っこのため、登下校は片道約1時間の道のりを歩いて登校。集団登校で帰りは各々帰る。小6の時は集団登校のリーダーだった。

地元のスポーツ少年団には小1から入った。そのスポーツはソフトバールだ!なぜ野球じゃないのか?至ってシンプルだ。地元のスポーツ少年団には野球がなくソフトボールしかなかったからだ。小4の時からは監督=父になりそこからは父との時間が多くなった。父のおかげで運動神経が良かったのでソフトボールも何も問題なくやれていた。ちなみにセンターで1番バッター。足が速く肩が強かった。足の速さは小学校でもトップクラス。常に上位3位には入るくらい。そうなると女子にモテるよね。小学校の時のモテる要素の第1位が運動神経だよね。でも、小学校は田舎の小学校なので分母も小さかったので、バレンタインは最高でも10個だ!

勉強の方は可もなく不可もなくだったと思う。好きな教科は体育と家庭科。嫌いな科目は算数と理科だ。

小学校4年生の時に後々の人生においても影響のある事件が起こる!

父が連帯保証人になっていた人が飛んだ!!何千万という借金が父に降りかかる!そこからは寿司屋を畳むことになり、自宅兼店舗を売り出すことになり、父は父の先輩がやっていた建設業界への転身をすることに、母は保険のセールスレディへと転身。しかし中々自宅が売れずに小学校時代はそのままそこで暮らしていた。

また、小4の時に妹も出来た。10歳下の妹、当然可愛がる。オムツ替えやミルクをあげるのも進んでやっていたため、僕の子供が誕生した時にもそのスキルはすぐに発揮された。奥さんよりも上手かったからね。

【中学生時代】

中学1年の時に自宅兼店舗が売れ、そこからは借家暮らし。売れたけどまだ借金はかなりの額が残っていたらしいが、それを知ったのは大人になってからだ。

中学に入ると、小学校が3校合わさるので、一気にマンモス校になる!そうなると僕よりも運動神経が良いやつなんてのはたくさん出てくる。それに僕は成長期が遅く中学の時には成長期が来なかったので、一気に運動神経が上位から中位になる。

中学では野球部に入るが、僕の小学校以外の子はみんな小学校から野球部、僕の小学校だけソフトボール部だったこともあり、僕の小学校から野球部に入った子はみんなレギュラーになれなかった。それに、野球部の監督が手を出すまさにスーパースパルタな監督だったため、やる気も起きず。野球部にただ所属していただけで特に野球に対する目標はなかった。ちなみに小学校の時は、当時僕の中のスーパースター、西武ライオンズの背番号1の秋山選手みたいな野球選手になることが夢だった!

中学時代は家庭環境も変化し、周りが急に人が増えたり、成長期が早かったりで自分自身とは全く向き合っていなかったと思う。何をやるにも無関心みたいな感じだった。が、モテてはいた。

【高校時代】

中学時代に全てが中途半端に生きていたため、勉強したくない→普通高校の選択肢は除外→地元よりも少しだけ遠いこと→隣の市の工業高校へ入学。

自転車通学は大変だったな。電車でも通えないことはないけど、自宅から駅まで行くのに自転車で15分掛かる。高校までは自転車で30分。結果自転車通学だよね。でも雨の日は母がよく送ってくれたな。

工業高校なので色々な科がある中、僕は機械科。なぜ機械科か。単純に募集人数が多かったから。機械科と電気科が募集人数多くて、電気=理科=無理ってなっての消去法の機械科!wでも、機械科の実習科目は好きだし得意だったな。溶接、旋盤、製図、コンピュータプログラム。特に溶接は得意だったな。

高校の時にのめり込んだのは部活。そう!サッカー部だ!え?野球はどうした?野球は練習量の割に試合での割合が少ない。それに中学時代のスパルタ監督のせいで野球が嫌になっていた。サッカーは元々好きで本当は中学からサッカー部へ行きたかったが父が野球好きなので中学までは野球をやっていた。サッカー部へ入ると周りは小学校からずっとサッカーをやっていた人達ばかり。素人は僕ともう2人だけ。でも持ち前の運動神経の良さと負けず嫌いが良い方向に働き、1年の終わりにはレギュラーを獲得するまでに。高校へのモチベーションはほとんどサッカーへのモチベーションだったな。僕のいる静岡県は昔はサッカー王国。僕の時はまさにその王国時代。小野伸二や高原直泰が同じ学年でいたな〜。小野伸二と対戦出来たことは今でもいい思い出。

ちなみに工業高校なのでヤンキーもいっぱいいた。暴◯族やチー◯ーも普通に友達がいたな。僕は少しだけ悪いって感じですよ。

【プータローから専門学校時代】**

高校から進学するか就職するかで悩んでいたが、高校から就職するともうすでに高校の実習でやっていたことを仕事にする感じだが、僕はもっと色々なことを知りたいと思いパソコン系の専門学校へ行こうとする。無事に受かって入学金を払い後は入学って時に何を血迷ったか、ファッションへの興味を持ちはじめてしまい、専門へ行くことをやめてしまう。この時に親にまだ借金があることが告げられていたが、自分の感情を前面に出してしまい入学しなかった。でも、その頃は父が建設業を自分で営んでいたので、父の仕事を手伝いながらファッションとはなんぞやと思っていたが、2ヶ月もすればファッション業界への憧れは消えていたっけ。次に興味を持ったのはデザインだった。親の手伝いをしながらデザインに魅了されていき、1年後デザイン系の専門学校へ行くことに。その時のお金はその時に働いたお金で行きました。

デザイン系の専門学校へ入って、初めてMacに触れて、PhotoshopやIllustratorなのソフトに触れ、なんとか賞の入選もするくらいデザインの勉強をしっかりとやり、無事にデザイン事務所に入れた!

【デザイナー時代】

建築設計、グラフィックデザイン、WEBデザインを請け負っていた会社でグラフィック、WEBデザイナーとして働き出した。

そこの社長は僕のデザインを凄く買ってくれていて、初めからドンドンデザインを任された。まずは名刺のデザインからやり、チラシのデザイン、WEBサイトのデザインをやってそれなりに仕事は楽しくやれていた。

けど、デザインする時にクライアントから来る写真素材が素人が撮った写真ばかり。たまにプロのカメラマンが撮影した写真を見た時に、なんか衝撃が走った!いつもは写真を前面に出してデザインするなんてしてこなかったけど、プロが撮った写真はもうデザインとしてほぼ完成されていた。僕はそこにコピーを入れただけ。

この時に写真の持つ可能性ってすげ〜!ってなり、それが今に生きています。

【カメラマンアシスタント時代】

デザイン事務所には約1年所属していたけど、東京の提携先に吸収合併されることになり、その当時は東京へは魂売らないぞってなってて、僕はデザイン事務所を辞めることに。

転職活動していたら、前の職場が求人募集をしていた。広告写真を撮影する会社。電気が走った。デザインをする時に写真の力は偉大だと思っていて、それを実際にやっている会社の求人。これは受けてみるしかない!

僕は写真学校にも行ってもなければ、趣味で写真を撮っていたわけでもない。写真の知識なんてゼロ。でも応募した。何人か応募していた中、デザイナーの視点での写真の捉え方ってこれからは必要だと採用してもらえた。

写真の知識ゼロでその当時は、フィルムとデジタル両方やっていた。フィルムなんてネガフィルムを触ったことがある程度。ポジフィルムなんてみたことも聞いたこともないど素人。が、ここでも持ち前の負けず嫌いが発動して先輩に聞いたり、自分で必死こいて学んだりして半年後には、チーフカメラマンのアシスタントになりことに。

チーフカメラマンはいわゆる僕の師匠!普段は凄く優しく、ちょっぴりエッチなヒゲのおじさん。でも写真に対する知識、アイデア、経験全てが凄い人。静岡の広告写真業界でも名前が知れ渡った人の下でアシスタントすることが出来たことは今でも本当に有り難かったです。

写真撮影する時の心構え、クライアントが求めている以上のアイデア、自分のアイデアやディレクターのアイデアを瞬時にやってのける経験値。この人の全てを盗むつもりで必死こいてやってました。

【雇われカメラマン時代】

アシスタントの傍ら、徐々にカメラマンとしても仕事をやっていくことに。

初めは地元の企業がやっていたフリーペーパーの撮影から。フリーペーパーの創刊からずっと先輩達がやってきたのを引き継ぎました。デザイナー、コピーライター、営業、それと僕で取材に行き、店舗を撮影したり企画モノを撮影したり凄く楽しかったけど、企業の方針で廃刊になった時はもの凄くショックだったな。まるで自分のせいだと思ったからね。

その後は、色々な撮影をしてきました。住宅、マンション、企業案内、料理、量販店のチラシ、モデルを使った撮影、家具、仏壇などなど。

ここで前の会社の転換期が訪れることに。僕が辞める1年前に僕の師匠、その次に古くからいたカメラマンが揃って退職。一気に人が少なくなり、僕が前面に出てやって行くことになりますが、ほぼ家族経営状態だったため、僕の居場所は少なく、またお金のことに関してもやっていかなくちゃになってしまい、ストレスでお腹の調子が悪くなること何ヶ月。独立しようとか考えてもいなかったけど、これ以上居続けたら体調悪化すると思い、独立することに。

そういえば、結婚をしたのは2011年、3月21日 3、2、1ダ〜〜!です。プロポーズの言葉とかはなかったのかも。そして第1子が産まれたのはその翌年2012年6月。子供が産まれた日は、体調不良で仕事を早退してたんだけど、産まれるって連絡受けて慌てて病院へ行ったっけ。初めての自分の子供は感動もんだね。ずっとこの子を守っていこうって思ったし、奥さんに本当に感謝した。第2子はその2年後2014年4月。第3子は2017年9月。そう!3児のパパなんです。2男1女のパパです。

【現在】

そして2018年10月から独立してフリーランスカメラマンになる。前の会社での仕事もまだ残っていたこともあり、前の会社での仕事を請け負いながらのスタートとなって、付き合いのある会社さんへの挨拶もほとんどすることなく2019年を迎えることになってしまい、年明け早々から営業をしてこなかったつけが一気に来て、1月は本当にヤバかった。

でも、その1月中に営業活動をやったおかげでなんとか仕事が来るようになった。

でも、前の会社でのスタンスのまま仕事を請け負う感じなので、僕の仕事の9割は広告代理店経由での仕事。広告代理店経由での仕事だと直接お客さんと会話して打ち合わせに参加することがほとんどない。デザイナーからの指示だったり、デザインがすでに決まっているものの撮影がほとんど。

でも、僕はもっとクライアントさんに寄り添いたい。打ち合わせの段階から入って提案していきたい。よりコミットできるようになりたい。

そんな思いから、去年の暮れくらいからTwitterでそれを発信してきました。その思いに共感してくれて仕事をいただくことも増えて来ました。

【これから】

これから先はよりプロフィール写真に特化して活動していきます。なぜプロフィール写真なのか。それは、プロフィール写真がその人にとっての最大のアイコンであり最大の広告物だからです。

これからの時代はより人と人との繋がりで仕事をして行くと感じています。少し前は企業と企業だったのが、その企業のその人がいるから、その人と仕事をやりたいに変わっていき、また起業をするのも前よりは敷居が下がってきています。

その人が持つその人にしかないものをブランディングし、その人がどう在りたいのかを一緒に考えて、それを人に伝えていく、その為にはプロフィールは非常に重要なものになります。どう人に見られたいのか、どういう印象を抱かせたいのか、僕の写真撮影で気づき、発信できることをやっていきますので、最後まで読んでくれた人は、これからも益々よろしくお願いいたします。


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