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最近思うこと、誰かの正義にしんどくなる

争いの元には大抵誰かの正義がある。
これがこうなのはおかしい、あの人はおかしい、本当はこうあるべきなのに、とか。

この年始のように、誰もが不安で落ちつかない時には尚更。どんな意見も正しいようでいて完全ではない。どうしたって1人の視点でしかない。

そして安易に賛同する人こそ、味方ではない。見えていないことが多く、少し視点がずれていたら今度は別の方向を向いて平然と傷つける。でも、傷つけたって開き直って言うんだろう、「自分は正しい、なぜならば」と。

SNSが好きだけど、誰かの醜い感情や争いを見るのがしんどい。そういう目的で見ているわけじゃないから。苦手な人はなるべくミュートにしているが、それでもタイムラインに流れ着いてしまう。

こんなふうに書くと私は穏やかで平和な人間ですよと言っているみたいだが、実際は逆だ。すぐカッとなって感情的になるし、文句は本人に言わないと気が済まない。喧嘩別れしても、別に気に留めない。嫌なものは嫌。時に、自分の正義を振り翳して誰かを傷つけるタイプだと思う。

だからこそ、誰かの正義を見るのがしんどい。怒りの波が共鳴してしまいそうで怖い。見ていて醜い、弱いと感じる。こういうの、同族嫌悪って言うのかもしれない。

正義があるからこそ、世の中が良くなることもあり、ただ目を背けているのが最善だとは思わない。けれど、今は誰かの正義がしんどい。ただ平穏に暮らしたいと願う。

正義に心を燃やしているとき、その顔は醜く歪んでいないか。静かに冷静に、信念を淡々と貫くことはできないのか。そうやって自分に問うて生きたい。

SNSってうっとうしいなと思いながら、気づけばスマホを触っている。あの人もこの人も、どうか平穏に、笑っていてほしい。


※暗いnoteなので貼っておく
つらいときにはキムチバター餅を食べて。
味の想像がつきそうなのに、バターとキムチの調和が期待を超えてくるから。
志麻さん最高。


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