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『人新生の「資本論」』を思い出して

感染症に戦争に自然災害で不穏だから

人新生の「資本論」』を読んだのは2022年の三月ごろ。
2019年にバルファキスの『父が娘に語る美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』を読んで、あたりまえだと思っていた世の中の経済活動に疑いの目を持つようになったからだった。単純である。

マルクスの『資本論』という古典を再評価する動きがあるらしかった。ところがマルクスはすっかり忘れ去られた存在になっていて、新しい文献も専門家もおらず、学ぼうとする学生もいないような状態がしばらく続いていたようだ。

そんなときにさっそうと現れたのが『人新生の「資本論」』だった。著者はなんと日本人。マルクスの『資本論』を読む学者というではないか。邦訳『大洪水の前に』はドイッチャー記念賞を歴代最年少で受賞している。
『人新生の「資本論」』は2021年の新書大賞に選ばれ、カバーには40万部突破とある。当時はまだ図書館になかったので、珍しく新刊を購入して読んだので手元にあったのだ。

個人的な将来不安に始まった憂鬱は、コロナ禍でどんどん膨らみ、ウクライナ侵攻がとどめをさした。世界はすっかり戦争モード。こうなったら地球温暖化どころではない。極端な気候変動も常態化してもう慣れるしかないとあきらめの境地。

大雨の浸水やら猛暑の心配をしながら先日、ちょうどテレビで放映された『風の谷のナウシカ』と『もののけ姫』を見た。真に迫るものを感じてしまったのは気のせいか。物語の世界があまりにリアル。

そこでふと『人新生の「資本論」』を思い出したのだった。今のような暮らしを続けていたら、人も地球も持たない。確かそんなようなことが熱く書かれてあった。どうすればいいと提案されていたっけ。

読んだ当時は著者がめざすような世の中になったら素敵だなあと思ったものだ。今も基本的に嫌いじゃない。助け合って共有するという考え方も全然悪くない。むしろ素敵だと思っている。

にもかかわらず実現可能性を考えたとき、絶望的になって冷めてしまったことを思い出した。

実現可能な未来は

ざっくりとしたわたしの理解によると、『人新生の「資本論」』では、土地や森といった限りある自然のものは、誰のものでもない共有の財産とし、無限に生産力を向上させることによって無限に経済を成長させることをしない持続可能な定常型経済システムにシフトしていくことが提案されている。こうした考えを脱成長論とかコミュニズムとかいうようだ。定義とか理解が間違ってたらごめんなさい。

「脱成長」という言葉に敏感に反応する人たちも相当いる模様。単純に「成長しないってどうなの?」と言いたくなる気持ちはわからないではない。

「いやいや技術革新ですべては解決できる」と言い切る人もいる。また、貧困や格差、二酸化炭素の排出量は減少傾向にあることを理由に、資本主義が経済や環境を悪化させているのではないと考える人もいるようだ。これにはちょっと驚いた。

技術革新を信じるのも脱成長論をめざすのも、実現可能性的には大して変わらない気がする。

この猛暑のさなかにいると、やがて人間は宇宙服のような装備をしないと外出できなくなるくらい地球がどうにかなってしまって、そのうち人類が暮らせなくなるという未来が一番リアルだったりする。

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