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発信する人、しない人

10年くらい前からだろうか、誰もが発信できる時代になった。
誰もが発信できるようになったからといって、
誰もが発信するわけじゃない。
発信する人と、発信しない人という線が引かれ、カテゴリーが生まれた。

学生時代のキラキラ

学生時代を思い出せば、キラキラした(ように見える)人と、
そうでない人がいた。もちろん、私はそうでない人だった。
それはそれでいいと思っている。

「ばえ」への違和感

SNSに伴って、「映える」という言葉(概念)が生まれた。
見た目が良い。多くの人に「いいね!」を押されることが
最上位概念となった。

でも、学生時代のキラキラとはなんか違う。

「ばえ」の技術

誰にでも伝わる「わかりやすさ」が技術の肝。
楽しい!!美味しい!!便利!!のパッションはキラキラとして輝きと共に
誰もがそう思うであろう写真と文章が世の中に溢れた。

この角度、この色、この場所、この商品。
「ばえ」には法則性とやり方が与えられ、誰でも発信者にした。
そうゆう意味でも、革命的だった。

写真家・中川正子さんの写真

中川さんの写真はいい意味で「ばえ」ていない。
どの写真見ても思うことは、この場面、この瞬間にシャッターを切れる人はいない。という圧倒的な複製不可能感。
まぁ、それがプロであり、作家(写真家)というものだと思うのだが。

枯れ木に・・・

「枯れ木に花咲くに驚くより 、生木に花咲くに驚け」
枯れ木に花咲くような奇跡のキラキラ話は、PVを稼げる。
PV欲しさに奇跡は捏造されていく。

中川さんの写真は、奇跡のように見えるが、日常である。
凡人が日常を切り取っても、奇跡は起こらない。
なぜだろう?

世界を見る目

カメラを持ってでかけよう。
世界を見る目(解像度・フォーカスなど)を
カメラを持つことで、変化させる。
いつもと違うものに目が止まる。
いつもと違う音が聞こえる。
感度が高まる気がする。

著書「みずのした」

日々の生活。
カメラを持っていても、持っていなくても、
感度が高い。心が動く。シャッターを切りたくなる。

言語化すること、旦那様に話すこと、
心と頭をつなげる作業として、言語化していく。
そして体。腑に落ちる。

また体が先に気付くこともある。
異変が起きると、心はどこか居心地をなくす。
頭で考えられるようになった頃、
涙は止まり、肌の炎症は治っている。

それぞれの日常、共感する粒度

日常に起こる出来事は人それぞれ。
同じ立場にも、同じ気持ちにもなれることはない。

些細な心の動き、言葉にしたくない(私のことだと言いたくない)こと
がどんな人にもある。
中川さんの言葉には、見ている世界の感度と同様に
言葉に粒度がある。

大きすぎて、共感できないこともなく、
細かすぎて傷つけることはない。

執筆家・中川正子

「みずのした」には、写真がない。
写真家が出版する本に写真がない。

取材スタートの質問は、中川さんの肩書きについてだった。
今回は、写真家としての執筆ですか?
そこに覚悟を感じたから。
そして、それに応えた作品になっていると思ったから。

フォロワーって何?

中川さんのインスタ・フォロワーは3.7万人。
多くの人に見られている。注目を集めていることは間違いない。
その中には、キラキラした「ばえ」をもった存在として
見ている人もいるだろう。

「みずのした」

キラキラした存在の白鳥も、「みずのした」は足をバタバタ。
キラキラした存在を一度引き受けた上で、
そんな私でも足をバタバタしているのよ!
というタイトルなのだと思っていた。
(ある意味では引き受けているとは思うが)

ジタバタに愛を

ジタバタはカッコ悪いことだったのか?
ジタバタしたから、愛せるものがある。
だから、ジタバタは無駄ではなかったし、
ジタバタに感謝しよう。
それもこれも、私だから。

「ばえ」に愛を

誰の評価を求めて「ばえ」ることは悪くない。
ジタバタしている自分を隠して「ばえ」ることに飽きたら、
ジタバタも愛してみよう。
私のジタバタも、あなたのジタバタも、
中川さんは優しく包んでくれる。


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