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人権の概念はどう治療的に働くのか:トラウマ臨床と人権②

前回の記事の続きです
※2022年11月のクローズドな勉強会で発表した原稿です。今回転載を快諾いただいたことに感謝いたします。
※またこれも投げ銭の設定です。無料で最後まで問題なく読むことができます。

人権の概念とトラウマ治療

それでは、もう少し突っ込んで人権の概念とトラウマについて考えてみましょう。それは人権の概念と、治療の関係です。

われわれにとって人権擁護は、常に求められています。臨床心理士の倫理綱領の前文には「臨床心理士は基本的人権を尊重し、専門家としての知識と技能を人々 の福祉の増進のために用いるように努める」と、第一条には「その業務の遂行に際しては、来談者等の人権尊重を第一義と心得る」と書いてあります。

しかしもう少しここでチャレンジしたいのは、とりわけトラウマ臨床においては、人権概念は治療技術的にも有用性であり、必須ではないのか、ということです。

トラウマ体験の本質から

なぜなのか。まず何よりそれはトラウマ体験の本質とは、その人の人権に基礎付けられた自由・意思・価値観・尊厳といった人間性を剥奪することにあるからであると言えます。これは以前の記事でも言及しましたが、今一度大谷彰先生の記述を見てみましょう。

数々の文献に記されたトラウマの定義に共通する要素を分析すると、自己の物体化と基本的価値観の歪曲に要約できます。自己の物体化とは自由、意思、価値観、尊厳といった人間性の剥奪であり、非力感に打ちのめされた状態です。この状態が持続すると個人の自己概念、他人への信頼、世界観などそれまで疑うことのなかった基本的な価値観が歪みます。これが定着してPTSDとなるのです。

大谷彰『マインドフルネス実践講義:マインドフルネス段階的トラウマセラピー』

この記述は、表面に浮かび上がっているPTSDの症状だけでなく、その背後にある自己の物体化と基本的価値観の歪曲の治療、すなわちその人の人権に基礎付けられた人間性の回復が求められていることを示しています。

人権概念の治療における重要性は、やはりハーマンも気づいていたところです。『心的外傷と回復』の中で、治療者の人権擁護の姿勢の重要性をこう述べています。

犠牲者となった人たち相手に働くということは道徳的には断然一つの立場に立つということである。治療者は犯罪の証人となるべき使命を授けられた者である。治療者は患者と連帯するというはっきりとした意思決定をしなければならない。<>それは、「外傷的体験の本質的理不尽性・不正性を理解していること」また「ある程度の正義の感覚が回復されるような解決を求めたい欲求を持っていること」という意味合いを含んでいる。この態度決定は、治療者の日々の実践において、その語る言葉の中に、また何よりもまず、逃げ口上や誤魔化しなしに真実を告げるという倫理的拘束性の中におのずと表れるようにこころがけしてほしい。

ハーマン『心的外傷と回復』208-209頁

ここで述べられている「外傷的体験の本質的理不尽性・不正性を理解している」「ある程度の正義の感覚が回復されるような解決を求めたい欲求を持っている」という感覚は、外傷が人間性を棄損し、そしてその回復こそが治療的に必須であるということです。そしてそれをハーマンは「治療者の日々の実践」においてトラウマ治療に求めています。

ハーマンは技術的中立性と道徳的中立性を区別していてややわかりにくいのですが、この箇所では治療者の人権擁護の姿勢が治療関係を構築するための治療論として、つまり治療技術として語られています。人間性の剥奪という本質を持つトラウマの治療において、人権擁護の姿勢は綺麗事などでは断じてなく、実務的な治療論としても必要だと言うことができます。

理念としての人権概念

このことを理解するために、人権概念が持つある性格について理解する必要があると思います。ここで一度、世界人権宣言の始まりについて確認しましょう。そこでは「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」という高らかな宣言です。その後も、生命・自由、および身体の安全があること、人として認められる権利があること、法によって守られる必要があることが書かれています。

さてこの世界人権宣言の始まりを読むと、どう思うでしょうか。多くの人たちにとって、この言葉はスッと入ると思います。その通りだ、すべての人には生まれながらに権利があり、平等で、自由である。

しかしこの言葉をトラウマサバイバーが聞くと、ちゃんちゃらおかしい!と思うかもしれません。幼少期から自由を奪われ、他の子どもが与えられていた尊厳と権利が剥奪されて育った人。父と母に殴打され、金銭的にも性的にすら搾取されてきた人。人間以下の扱いをされ、周囲は誰も知らんふりで、助けてくれなかった人。大人になってからも奪われ続け、いくら頑張っても報われない人・・・

そんな人たちにとっては、世界人権宣言の言葉は現実離れしたものであるように感じられることでしょう。

正しいのはトラウマサバイバーの認識です。なぜなら人権として謳われる事柄は、現状ではなく理念を指し示すものだからです。生まれながらにして自由ではない、かつ尊厳と権利においてすら平等ではない、生命・自由・身体の安全は脅かされている、人間以下の扱いを受け、法的にすら保護されていない。まさにそうした現状に対して、人権は宣言される必要があったからなのです。

そのため、まさに人権とはトラウマサバイバーのための言葉であり、概念あるべきものなのです。人権はトラウマサバイバーののあるべき姿を回復するような「理念」なのです。

しかし人権が「理念」だと理解しても、なかなか回復途上のトラウマサバイバーは納得できない、腑に落ちないところが残るかもしれません。その理由としては、人権の概念が持つもう一つの性格である、超越的というものが関わってくると思われます。

人権概念の超越性

人権という概念は、人間が人間であるということ以外の根拠がなく、付与されているものです。すなわち、その根拠とは、いかなるこの世的なものを超越したものに見出されるということで、人権は超越的性格を持つ、ということができるのです。

これは人権概念のルーツが、西洋におけるキリスト教の伝統の中にあるということが影響しています。しかし、現代的な人権概念は特定の宗教に限定することなく、すべての人に認められるものであると考えられ、そのオルタネティブはあるものの一定の説得力を持って他なる文化圏にも受け入れられています。日本ももちろん、その中の一つです。

しかしこの超越的性格こそ、トラウマサバイバーにとって人権の概念を受け入れ難いものと感じさせることになるのです。なぜならトラウマが破壊するのは、その超越的なものを信じる基盤である、基本的信頼感だからです。

基本的信頼感の超越性とトラウマ

基本的信頼感とは、われわれが生まれてから最初に獲得する、人格の発達の基礎的な性質です。生まれて間もない無力な赤ちゃんが、大人から泣いた時に気にかけてもらったり、楽しい思い出を共有したり、身辺のお世話をしてもらうことで得ることができる、「この世界って優しいな。自分はお世話をしてもらう価値のある人間なんだな」という感覚が、基本的信頼感です。

この基本的信頼感は、超越的性格を帯びています。それは自分が自分であるというだけで得られる承認であるからです。この基本的信頼感から、世界の秩序と超自然的な神的存在への信頼が生まれるのです。これは、単なる幼児期におけるアニミズム的信仰に留まるだけではなく、この世界は善が報われて悪が罰せられるという公正世界仮説として、成人以降も続く私たちの素朴な世界観を構成するものとなります。

しかし、トラウマはそれを破壊するのです。ハーマンは次のように描写しています。

恐怖状況においては人々は自ずと慰籍と庇護の最初の源泉であったものを呼び求める、傷ついた兵士もレイプされた女性も母を求め、神を求めてなく叫ぶ、この叫びに応答がなかった時に基本的信頼感は粉々に砕ける。外傷を受けた人々はただもう見捨てられ、ただもう孤独であり、生命を支えるケアと庇護との人間と神とのシステムの外に放り出されたと思う。

ハーマン『心的外傷と回復』76頁

トラウマは基本的信頼感を破壊します。そしてその超越的性格が棄却された後にあるのが、野蛮な現実です。これがホッブスが描写した「万人の万人に対する闘争」の自然状態に近い状態です。もはや安全がないその世界で、トラウマサバイバーたちは、根拠のあるものを求めていきます。そして厄介なのは、その根拠を提供するような対象が、基本的信頼感を破壊した当の本人であったり、あるいはさらに搾取しようという二次的な加害者である場合がほとんどである、ということです。

安全の指南役としての加害者

加害者・虐待者・搾取者は、トラウマサバイバーに根拠を提供します。

「お前が黙っていればいい」
「言うことを聞いていればこれ以上は何もしない」
「価値がないお前に使い道を与えているんだ」

などなどです。臨床場面で実際に加害者から吐かれた言葉を聞くと怒りで腑が煮えくり返るのですが、我慢してそれを聞くとそこには「こうすればいい」という行動指針のようなものが含まれていることが見えてきます。それはその人を隷属させ、人間以下に扱うようなものであるものではあるものの、自然状態を生き抜くための指針となるのです。

つまり被害者は、安全を確保しようと加害者・搾取者を指南役として、従うことになるのです。トラウマ臨床の中ではこれを「病的愛着」と呼んだり、あるいは「グルーミング」として指摘を行っています。そこは、暴力・支配・金銭・セックスに溢れた搾取と隷属の関係です。それでも超越的な自己の価値と尊厳の根拠を奪われた被害者にとっては、「何が起こるかわからない」対等な関係よりもマシなものとなってしまい、安全確保行動に走らせるのです。いわゆるトラウマの再演というのは、こうした基本的信頼感が喪失した中で安全性を確保するために生じるものなのです。

悪のとりこみと逆転移

同時にこの病的愛着の中で、独自の頑強な価値体系が、被害者の中に形成されることになります。それは強力な自責感情です。ハーマンはこれを、被害者が加害者の「悪を取り込む」と表現します。被害者の中に「私が悪いからこうなった」という、強力な根拠づけを植え付けます。

「私が悪いからこうなったんだ・・・そう考えないと辻褄が合わない」「何の理由もなく、私がこんな酷い目に遭うなんて、そんな理不尽が許されていいはずがない。私が悪かったに決まっている」というものです。日常的で修復可能なものではなく、それが非日常的で修復不能なものとして悪が生じたとき、その辻褄は被害者の悪の内面化という形で合わされることになるのです。

病的愛着の安全確保行動と否定的自己イメージは、治療の中で外傷性転移や逆転移として登場します。アクティングアウトや、治療関係の揺さぶりの背後に、かつての加害者が安全性の確保として指南した、支配や搾取のロジックが浮き上がってくるのです。多くの場合はかつて抑圧していた怒りとしてそれが噴出します。ただ場合によっては、セラピストへ直接的に支配や搾取の行動をとることを迫ることすらあります。あるいはここまで強力なものではないものの「お金を払っているから/専門家だから」とセラピストを例外化して、自分が無条件で承認される存在であることを、どうしてもクライアント自身が認めることができないということはよく見られます。

サバイバーはしばしば、ありとあらゆる根拠をもってして、自分が人権を持った尊厳ある人間として扱われるはずがないということを証明しようと治療の内外で試みます。それは自然状態における安全確保行動であり、加害者から取り込んだ悪によって自身の被害を納得させようとするために起こるものです。ハーマンが指摘するように、決してマゾヒスティックな倒錯から生じるのではない、ロジカルな帰結としてこれは起こるものです。

超越的承認

トラウマ治療の重要なポイントは、それらを乗り越えて、クライアントの中に基本的信頼感を再確立するということになります。それはクライアントの存在を、セラピストが無条件に承認することが必須になります。だからこそ、セラピストが人権の擁護者である治療的必然性が生じるのです。

すなわちセラピストが「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」という超越的性格の価値観に殉じるからこそ、加害者とは全く異なる根拠において、トラウマサバイバーの生を肯定することが可能になるのです。

反対にいえば、ありとあらゆる有限的な根拠は、被害者の背後にある加害者の影によって、無効化される可能性が残されてしまいます。人権の持つ超越的性格が根拠になるからこそ、あらゆる脅かしに対抗して、クライアントの生を肯定することが可能になるのです。

神を超える神

では、これは宗教が必要だということでしょうか。あるいは、宗教が支えとなることが言えるのでしょうか。

実は、この加害者の脅かしには、特定の信仰・宗教的なバックグラウンドでは耐えることができません。先にあるハーマンの引用にもあったように、特定の神は生死が関わる実存的な懐疑の中では消え去ってしまうからです。自らも第一次世界大戦の従軍体験からPTSDであった神学者パウル・ティリッヒは、名著『生きる勇気』において、そうした実存的な懐疑の中でいかに特定の神の存在が無力であるかということについて描写しています。

そうした実存的懐疑を乗り越えるのは、特定の神ではなく、『生きる勇気』の最後の一節にあるように、「神が懐疑の不安の中で消滅してしまったときにこそあらわれ出る神に基礎付けられている」必要があります。ティリッヒはこの「懐疑の不安の中で消滅してしまったときにこそあらわれ出る神」を、神を越える神と呼びました。それはありとあらゆる脅かしに抗して自らの存在を肯定せしめるような、存在そのものの根底、存在それ自体(being-itself)なのです。

徹底的にラディカルな実存的懐疑の中でも、なおその懐疑する主体が存在しているということが、逆説的にその主体を肯定するのです。ティリッヒと同様のロジックは、ハーマンの記述の中にも見られます。

生存者は自分に与えられた被害に責任がある訳ではないが、自分の回復には責任がある。逆説的であるが、この誰が見ても明らかな不正義の受容が有力化の端緒である。生存者が自分の回復の全面的主導権を握る唯一の方法は、回復の責任を引き受けることである。破壊されないで残っている自分の強さに気付く唯一の方法は、それを全面的に活用することである。

ハーマン『心的外傷と回復』

基本的人権の概念は、キリスト教という特定の宗教に由来するものですが、そこにはそれを超えた普遍的価値が存在します。そこに表現されているのは、神を超える神なのです。だからこそ、基本的人権の概念はトラウマサバイバーの生をラディカルに肯定する基礎となり得る概念なのです。

究極的な問い

さて、こうした問題は通常の治療関係で浮かび上がることはそんなにないのでしょう。基本的信頼感とある程度の愛着関係を築く力があるクライアントは、自然とセラピストとクライアントの協働関係に身を委ねることができます。そこには確かに未知なものが存在していますが、それが必要以上の不安を掻き立てることはありません。

たとえトラウマ治療だとしても、その機会は決して多くないのかもしれません。通常の治療では、治療者はまず症状を扱います。そこで向き合う治療上の困難のほとんどは、技術的な問題です。現在はエビデンスによって確かめられた、さまざまなPTSD治療のプロトコルが開発されて実践されています。こうした治療を進める中では、究極的な根拠を問われることは頻繁にはありません。

しかし、ここまで述べてきた問題はまさに治療の山場でこそ問われることになります。トラウマサバイバーの傷つきが深ければ深いほど、その治療において、こうした場面が訪れます。治療が進展したからこそ、治療関係そのものが疑いにかけられることになるのです。芽生えた愛着に対する疑念が、病的愛着の安全確保行動と否定的自己イメージとして賦活され、治療の中で外傷性転移や逆転移として登場するのです。

ある意味で、それはセラピストがクライアントを通じてトラウマに本当に「出会う」時であるといえます。トラウマも、そして回復も、同じ人とのつながりにおいて生じます。治療関係というつながりに対する揺さぶりの中で、カウンセラーはクライアントの感じた絶望に触れることになります。クライアントは全ての人間に対する絶望を語ります。もちろん、そこにいるセラピストもそこに含まれます。そこでは加害者の悪が、クライアントとともにセラピストの存在の根拠を激しく揺さぶります。もはや逃げ場のない土壇場です。

そこにおいては、クライアントと同じく、セラピストもまた傷つきやすい、有限な存在であることが開示されます。クライアントの、そしてセラピストの、私たちの存在の根拠とはなんであるのか?かつての加害者が示したように、セラピストもクライアントもお互いをただの道具として利用するしかないのか?

それに対して、われわれセラピストは、毅然として「否!」をいうことができなくてはなりません。目の前のクライアントの存在/プレゼンスが、人間以下の存在として傷つけられてはならないという、倫理的・道徳的感覚によってそれを明確に否定するのです。それは、人権の持つ超越的性格、その存在それ自体を承認する力によって裏付けられるものです。その普遍的な存在の価値そのものを信頼することで、セラピストは加害者とは全く異なる根拠において、クライアントの生を肯定し、絶望の中で治療関係を維持することが可能となると考えられます。

加害者によってもたらされたトラウマをクライアントが治療関係の中に持ち込んだ時、セラピストが普段の治療の中で根拠にしている一切は懐疑の中で消滅します。しかしそこで人権の擁護者であるということが、最後の最後でそれを押し返す力を与えてくれるのです。このことが、人権概念が道徳的・倫理的次元を超え、治療的にも必須であることの意味だと考えられます。

人権概念の超越的性格は、普段の人間関係や治療関係の中では、特段必要なものではないかもしれません。しかしそれはつながりそのものへの絶望というトラウマ臨床における極限状況を乗り越えるために、治療者に要請されるものとなると思われます。

以上、人権概念がトラウマ治療の実践においても重要であることを示しました。最後に、この原稿を書くにあたって着想を得た、ある精神科医の先生の言葉を紹介して終わりにしたいと思います。

「トラウマを診るということは、人権に気付き続けることだと思うのです。疾患として診るのであれば医療者の鎧を着ることができます。しかし、人として出会わないと、ほんとうの意味で、トラウマは診られない<・・・>人の中に見るものは必ず自分のなかにある:人は皆複雑性PTSDであり、精神療法の本質は複雑性PTSDの発掘と治療にある」

ありがとうございました。

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