共感的態度はトラウマ治療において効果があるのか?(トラウマにおける「逆転」の取り扱い②)
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ちょっと前に「トラウマにおける「逆転」の扱い:心理的逆転の概念を手がかりに」という記事を投稿したが、後半部に関してはちょっと好き勝手書きすぎかな?と思っていたので公開せずにして、数人の人に読んでもらっただけにしていた。ただまあこのまま寝かしていても忘れてしまうので、僕にとっては忘備録も兼ねているこのNoteにアップしておこうと思う。
ただし、今読み返しても自分の思考の流れをそのまま書いている感じで、結構尖った内容である。他者にとってはあまり参考になるものではないかもだけど・・・とカッコ悪く言い訳しながら。
共感的態度による逆転の修正
前回の記事で述べたように、トラウマを抱える人たちに、それがオリジナルのキャラハンが述べる心理的逆転と同一であるかはともかく、ある種の「逆転」と表現できるものが存在し、そしてそれが治療上の課題として存在しているということは言えるだろう。ではこれにどう対処すればいいのか?
嶺(2019)は、心理的逆転を解消することは複雑性PTSDの治療において非常に重要であると述べ、その方法としては認知に働きかけるトップダウンのやり方と、身体的なアプローチを含むボトムアップのやり方があると述べている。キャラハンの述べる心理的逆転はおそらくは認知的アプローチでの解消は志向されないため、ここではより広範囲の逆転を指すものであると思われる。
しかし、前者のトップダウンの方法はまさにその逆転によってそれが阻まれてしまうものではないだろうか。単純な認知的な修正が効果的であるなら、それは臨床上大きな問題ではないだろう。もしそれだけで上手くいくのであれば、それはクライアント側の要因が大きいか、ないしはセラピスト側が何らかの(おそらくボトムアップを含んだ)方法を用いているのであろう。
その一方で、後者のボトムアップの方法は、経験が十分でないセラピストには困難であり、セラピスト側の要因に大きく左右されてしまう。もちろんセラピストには、自らの技能を伸ばす責務がある。しかしそうはいっても、いきなり熟達する技法を用いることは難しいし、かえってクライアントを危険に晒す可能性もあるだろう。
逆転に対して、既存の心理療法の枠組みを踏襲しながら取り入れることが出来るアプローチは存在しないのだろうか?
発想の背景
トラウマに関わる臨床家であれば、こうした逆転が見られる症例に出会うことは珍しくないであろう。しかしおそらくではあるが、特別な技法を用いずとも、いつの間にかそれが解消されたように見えた例があるのではないだろうか。それは筆者もそうである。
それはトラウマ処理の結果として考えられる場合もあったが、大抵は処理の前段階である程度逆転は解消していたように見えるし、また全くそうした介入を行わない事例も含まれている。
とあるセッションのはじめに心理的逆転のチェックを行ったところ、それがあると出た。しかし何となくタイミングを逃し、そのままカウンセリングを実施することになってしまった。ただそのセッションに手応えがあり、思いついて心理的逆転のチェックを行ったところ、その結果は、ないと出たということもある。
こうした事例において逆転の解消までいかなくとも、その修正が生じていたとするのであれば、どのような要因によってそれが可能となったのだろうか?
心理教育と中立性の破棄
こうした逆転が修正されたように見えるトラウマが背景にあるクライアント(ICD-11の複雑性PTSDの診断基準を満たす人も含まれる)に共通して行った介入を振り返ると、三つの要素が効果的に働いたのではないか、と考える。それが心理教育、中立性の破棄、そして共感的態度である。
まず、心理教育である。心理教育はトラウマ治療の必須のコンポーネントであり、それはクライアントの症状と課題を分離させ、治療プロセスに見通しを持たせるものである。また他にも、とりわけ治療初期にはその権力勾配が治療関係の安定にもつながることになる。
そして心理教育を通じて、クライアントは自らに生じている逆転について知ることができる。知識だけで逆転が解消されることはほとんどないとしても、心理教育なしに逆転が解消することも、またほとんどないだろう。
心理教育を通じて、逆転として生じていること(再演や強迫反復など)が、トラウマ後に普遍的に生じる症状であると示される。それによってそれらが決して「誤った考え」などではない、ということを治療関係の中で確認できるのである。それらを個人的なものから、共有されうる普遍性を持つものへと心理教育の中で転換していくのである。これによって、逆転した事柄はセラピストによる共感の可能性に開かれたものとなるのである。
続いて、中立性の破棄についてである。ハーマン(1995)は、セラピストは技術的中立性は保つ必要がある一方で、道徳的には中立性を破棄し「断然一つの立場に立つ」必要があると述べている。
心理教育が逆転した事柄に対する共感可能性を開くとするのであれば、中立性の破棄はその逆転の極に関わるものであると言える。
逆転が合理的に説明でき、なおかつ共感が可能なものであるとするなら、なぜそれを修正する必要があるのだろうか?それはその逆転が、人間性が毀損された正義に反する状況で作られたものだからである。それが症状であるから、または社会的にそれが望ましい行動だから、というロジックだけで転回できるようなものでないからこそ、それは逆転として問題にされているのである。そこには個人利益を超えた新たな視点が導入される必要がある。それが社会正義の感覚である。
こうした立場は、一種の政治的態度と関わって表明される。トラウマは決して個人間の問題に留まるものではない。被害者に対して「こうあるべき」という社会的圧力は政治的姿勢によって作られ、逆転を作り出す一つの原因となるものである。セラピストはそこに対しても臨まなくてはならない。
こうしたことから、治療の中でセラピストが道徳的に中立性を破棄して、一つの立場に立つことを明確にすることは、心理教育と同じく逆転の修正において必須の要素であると思われる。
心理教育と中立性の破棄は、逆転の修正が起こるための前提条件であるように思われる。実際に修正が生じる関わり合いとして有効だと思われるのは、次にあげる共感的態度であると考えられる。
共感的態度とトラウマ
ここで述べる共感的態度とは、ロジャーズ(2001)が述べるような「中核三条件」を満たすような状態であり、共感だけでなく自己一致や受容をも含むものである。この共感的態度が機能することで、逆転は修正されていくと思われる。
なぜ共感的態度が逆転を修正するのか。それは、ロジャーズのいわゆる「必要十分条件」が、変化しないことを認める、にもかかわらず、変化を生むという、逆説を持っているからであろう。逆転は通常の関わりでは変化しない。動機づけ面接の理論にあるように、正論であればあるほど、それは逆転を強化するものとなってしまう。しかし逆説であれば、そうした抵抗を引き起こすことなく、そこにアプローチすることが可能になるのではないか。
共感的態度は、既存の心理学の枠組みに沿ったものであり、もしこれで逆転の修正が可能であるとするのであれば、より取り組みやすいものであろう。またこの共感的態度は、ボトムアップやトップダウンの方法と矛盾するものではなく、むしろその実践者は必ずと言っていいほど取り入れているものである。
しかしだからといって、通常の心理療法と同じような形でやればいい、ということではない。トラウマ臨床における共感は、一般臨床における共感とは少し様相が異なると考えることができる。トラウマ臨床における共感の重要性について述べた大谷(2018)の記述でそれは明らかなので、少し長いがそれを引用することする。
ここで述べられているのは、共感とは単にトラウマ体験があったということを理解することではなく、その人間性が受けた深い傷つきに対して行う必要がある、ということである。そしてその共感は、治療を通じて常に行わなくてはならず、それが回復のための必須条件になるものなのである。そして大谷は、パターン化した、すなわち小手先の共感について無効であると言い切り、トラウマの「言葉を失う」という体験に対して共感することが求められるとして、その例を示しているのである。
この例においては、逆転が起こっているかは定かではない。しかしながら、もし逆転が生じていたとしても、このやりとりを経ることで、セラピストとクライアントの関係が大きく変わることは容易に想像できるのではないだろうか。
実際、筆者の経験でも面接の中でこのような「言葉を失う」ようなやりとりが生じた後で、面接が進展したと感じたことは何度もある。そして重要なのは、たとえ逆転が生じていたとしても、こうした共感を治療関係の中で成立させることは十分可能であることである。それはこうした共感の中にある逆説的性格のためである。
先の例で言えば決してセラピストはクライアントを否定していない。そのため、これは顕在意識によって否定されるものではない。しかしこれは逆転する潜在意識に共感として働きかけているのである。こうした共感が繰り返される中で、治療関係の中で安全なバウンダリーが再構築されていく。すると、クライアントは一人で孤独な対処として行っていたストレスのコーピングのパターンを、セラピストと二人で一緒に考えていくということができるようになっていく。良いものを取り入れ、悪いものを排除することができるようになり、逆転は徐々に修正されていくことができるのである。
共感に対しては、時たま傾聴と混在されることがあるが、こうした共感はかなり積極的な介入である。この後、大谷は「クライアントの状況やトラウマ体験を明確に把握せず、しっかりとした信頼関係が確立されるのを待たず、共感を一方的に『押しつける』ことは、クライアントの人間性が無視されるトラウマ体験にほかなりません」と警告する。
すなわち共感は、他のトラウマ処理の方法よりは実施のハードルは低いとしても、アセスメント、治療関係、そして安定化を実施してから行う、アクティブな介入であると位置づけられる。いわゆる「傾聴に努めた」などとカルテに書かれるような、パッシブな対応ではない。そうした対応はとりわけ複雑性PTSDにおいては禁忌であるが(杉山, 2019)、こうした共感的態度はそれとは異なる積極的なものとして位置付けることができるだろう。
しかし最大の問題は、大谷が述べるように、こうした共感スキルを習得することは容易ではないことにある。それは「言葉を失う」ようなトラウマの深淵の体験を、いかにして共感することが可能なのか、という問いでもある。以下でこの問いについて予備的な考察を試みたい。
了解不能なものに共感するということ
了解不能なものとしてのトラウマ
トラウマの深淵の体験を、いかにして共感することが可能なのか?その一つの有力な回答は、それを経験しない人たちにはわかり得ないものである、という考えである。こうした考え方についてセラピストは敬意を持たなくてはならない。トラウマの体験は、セラピストにとって了解不能性を持つ。
ロジャーズ(2001)は共感について、「クライエントの私的世界をそれが自分自身の世界であるかのように感じとり、しかも『あたかも、のごとく』という性質をけっして失わない」ものであると述べている。
しかし、トラウマ体験とは「言葉を失う」ものである。われわれのコミュニケーションが言語で行われるものである以上、「言葉を失う」体験について伝えることに限界はある。そうした体験について「私的世界をそれが自分自身の世界であるかのように感じ」るということは、セラピストには不可能であろう。別のロジャーズの言葉を使えば、トラウマ体験については「内的照合枠」をセラピストは追体験することが出来ないのである。そのためトラウマ体験は、セラピストにはどうしても了解不能性を持つものとなってしまうのである。
しかし、トラウマ体験の了解不能性は、セラピストだけではなく、それを体験した本人にとってもそうなのである。田辺(2018)はカルースの言葉を引用し、トラウマの本質は死や暴力に直面したことであるよりも、その経験について了解不能なままにそれを生き延びてしまったことにあると述べている。だからこそ、それは生々しく「デーモン的」な性質を帯びた再演という形をとるしかないのである。トラウマ体験は、自身で内省し捉えようとしてもどうしても掴み損なってしまう。トラウマ体験は、クライアントにとっても了解不能性を持つものなのである。
このように、セラピストとクライアント双方にとって、トラウマ体験は本質的に了解不能なものなのである。もちろん、そこには了解可能な部分も多く含まれている。セラピストの心理教育やクライアントの言葉によって、それらは言語化されて物語化される(ハーマンの言葉を借りれば「音楽と言葉を与える」)ことは可能である。しかしながらどうしても、了解不能な部分がそこには残る。しかしそれは双方にとって了解不能なものであるため、そこに向き合った時の「言葉を失う」体験が共感可能なものとなるのである。
このトラウマ体験の内部にある了解不能性については、哲学的な用語では「無」あるいは「非存在」と呼ぶことができるようなものである。無ないしは非存在とは、存在の限界であり、それに反するものである。存在が存在する限り(生の過程にある限り)非存在は克服されているが、その存在の終わりにおいて非存在は死として現出する。フロイトがトラウマにおける強迫反復を説明するために導入した死の本能とは、存在の非存在への志向性を述べたものである。また我々が逆転と読んだものの極は、正が存在(生)であるとするならば、負が非存在(死・無)として置かれるようなものである。それはまさに無であるから、一切の理解を阻む了解不能なものなのである。
だからこそ、トラウマの了解不能性は、死の了解不能性と同一の構造を持つものとして語ることができる。我々は誰かの死の経験について共感をすることはできない。死そのものの経験の「内的照合枠」を捉えることができないからである。しかし、その誰かが死にゆく寸前の気持ちに対しては、それを「内的照合枠」において捉え、共感することが可能である。
トラウマも同様である。クライアントのトラウマの体験に共感する時、セラピストはトラウマ体験の直前までは「内的照合枠」で捉えることができていても、体験そのものは了解不能である。「内的照合枠」は断ち切られ、目の前に完全な闇が広がるような感覚に襲われることすらある。
しかし、それはクライアントも同様なのである。トラウマ体験の中核は非存在なのであり、了解不能なものに相対して「言葉を失う」ことしかできない。こうした了解不能なものに共に相対するというのが、トラウマに対する共感ということができるのではないだろうか。
共感による逆転の修正のメカニズム
そしてその了解不能性に相対するというトラウマへの共感はまた、逆転を修正する力を持つものであると考えられる。述べたように、この了解不能なものは非存在あるいは無として記述することができるようなものである。トラウマ体験に対して「内的照合枠」を使って了解可能なものを削ぎ落としていくと、だんだんと了解不能なものが浮かび上がってくる。そしてそれを最後まで進めたところで浮き上がるのが、了解不能なものとしての非存在そのものである。
そしてこの全くの非存在に相対するという経験が、絶望と呼ばれるものである。つまり、トラウマへの共感は、セラピストとクライアントが共に絶望を体験するということと言い換えることができるのである。
この共に絶望するという方向へと向かう共感は、たとえクライアントに逆転が生じていたとしても、それが志向する負の方向へと向かうものであるため、顕在意識の妨害を受けるものではない。そのため、トラウマへの共感は、了解不能なものとしての非存在の開示する絶望の場所に行き着くことができる。
絶望は逆転の負の極の先端である。そこから先は何もない。この最果てとしての絶望において共感が働くからこそ、逆転があったとしても、それ以上マイナスに進むことはなく、プラスへと転じるのである。
絶望には一種の肯定的要素がある。自らも第一次世界大戦に従軍して生涯PTSDに苦しんだという、神学者であるティリッヒ(1995)はこのように書いている。
トラウマ体験における了解不能性とは、非存在そのものであり、セラピストとクライアントの存在に対する否定そのものとして現出する。そのためそこで絶望が生じることになるのであるが、それにもかかわらずこの絶望の主体としてのセラピストとクライアントは共に存在しているが故に、それが存在肯定的な行為として反転するのである。この極限状態における反転のモーメントが、逆転に対して修正的に働くのだと考えられる。
これと同様のことを、田辺(2018)はベンヤミンの秩序と境界をつくるための暴力である神話的暴力と、秩序を破壊し人を限界から解放する純粋な暴力としての神的暴力との区別の観点から述べている。
この箇所は、ハーマンの以下の箇所の記述に繋ぐことができる。
トラウマ体験の中核にあるのは、了解不能性であり、絶望であり、人間性のゼロポイントである。そこには一切の肯定的な要素が存在しない。それにもかかわらず、そこに主体的に関わることによって、まさにその主体に内在する力が立ち上がる。
その内在する力とは、ティリッヒの言葉を借りれば、それは存在そのものの力であり、非存在の脅かしにもかかわらず自らの存在を肯定する「存在への勇気」の源泉である。この働きにおいて、逆転が修正されると考えることができるだろう。
自分の内部にある了解不能性を見つめる
当事者性を持つセラピストであれば、こうしたトラウマ体験の中核にある了解不能な体験について容易に思いを馳せることはできるだろう。では、そうではないセラピストはいかにしてクライアントのトラウマにおける絶望の体験に共感することが可能となるのか?
これは、我々が死にゆく寸前の人に対して共感することが可能である理由と同じである。我々は自分がいつか死ぬ存在であることを知っている。だからこそ、その死の寸前の「内的照合枠」に入ることが可能となり、それが打ち切られる瞬間に共感することができる。同じく我々は、トラウマ体験が開示する事柄が、事実であることを知っている。だからこそ、そのトラウマ体験の寸前の「内的照合枠」に入ることが可能となり、それが打ち切られる瞬間に共感することができるのである。
私たちは、死に関わりながらそれを忘却して日常を生きているように、トラウマに関わりながらそれを忘却して日常を生きている。このことを指して、神田橋(2021)は「生きとし生けるものは皆、複雑性PTSDである」と述べている。神田橋の見方は、通常の状態からトラウマという特殊な状態に転落するのではなく、むしろトラウマこそが通常の状態なのであり、たまたまそれが自然発生的な治療によってなんとかなっているのに過ぎないのだ、と考えるものである。
我々は、自分の存在が単なる有機物に過ぎないことをどこかで知っている。自らがこの世界に特別な意味を占めるという基本的信頼感は、愛着というシステムが稼働する限りにおいてしか成り立つものではなく、事実としては我々は孤独に生まれ孤独に死んでいくしかないことを知っている。我々が自明としているような見方は、偶然性と脆弱性の上に成り立つものでしかないことを知っている。
クライアントのトラウマの形の中で、セラピストが日常において忘却されているこれらの事実を見つめることで、トラウマの深淵に佇む人の「内的照合枠」に入ることが可能となってくる。田辺(2018)を再び引用する。
こうした深い思索は、自分自身の中になんらかの障壁がある限りにおいては達成することはできないだろう。セラピストは、日常において忘却している、自己の有限性、脆弱性、不完全性を受け入れることで、クライアントのトラウマ体験の語りの中で、了解不能な経験の中にある非存在の脅かしとしての、実存的な不安を経験することができる。ここで、「意識のゼロポイント」としての絶望の深淵が、自らの中にもあることをセラピストは気づくことができる。
これはまた、ありとあらゆるつながりに対する絶望でもある。セラピストとクライアントは、ここでつながりに対する絶望をも経験している。しかしこの絶望は、つながりの中で語られている。つながりに関する、ありとあらゆる絶望にもかかわらず、ここでつながっているという事実が、臨床を支える究極的な要素として働く。この経験は、ありとあらゆる逆転を超えて、深いレベルでのクライアントとセラピスト双方の変化を導くものになるのではないか。
ティリッヒ(1995)は存在への勇気(生きる勇気)の分析は、ある種の極限状態においてなされるものであり、それは滅多に訪れるようなものではないと述べた。ここで述べたような事柄はそのようなものであろう。しかし存在への勇気と同じく、その極限における形式が、一般的な形式を規定するものでもあると考えることは可能であろう。
参考文献(前回と併せて記載)
ウォーカー, P. 牧野有可理・池野良子(訳)(2023)複雑性PTSD 西和書店
大嶋栄子(2019)生き延びるためのアディクション 金剛出版
大谷彰(2018)マインドフルネス実践講義:マインドフルネス段階的トラウマセラピー(MB-POTT) 金剛出版
上岡陽江・大嶋栄子(2010)その後の不自由:「嵐」のあとを生きる人たち 医学書院
神田橋條治(2021)複雑なPTSDの治療手順 原田誠一(編)複雑性PTSDの臨床:”心的外傷〜トラウマ”の診断力と対応力を高めよう 金剛出版
クラウド, H. & タウンゼント, J. (2004)境界線 地引網出版
コーク, B. A., マクファーレン, A. C., & ウェイゼス, L. 西澤哲(監訳)(2001)トラウマティック・ストレス:PTSD及びトラウマ反応の臨床と研究のすべて
白川美也子(2016)赤ずきんとオオカミのトラウマ・ケア ヒューマン・アスク・ケア
ジャネ, P. 松本雅彦(2013)心理学的自動症 みすず書房
ジャネ, P. 松本雅彦(1981)心理学的医学 みすず書房
田辺明生(2018)生き延びてあることの了解不能性から、他者とのつながりの再構築へ:インド・パキスタン分離独立時の暴力の記憶と日常生活 田中雅一・松嶋健(編)トラウマを生きる:トラウマ研究1 京都大学学術出版
ティリッヒ, P. 大木英夫(訳)(1995)生きる勇気 平凡社
ハーマン, J. L. 中井久夫(訳)(1995)心的外傷と回復<増補版> みすず書房
ロジャーズ, C. 伊東博・村山正治(訳)(2001)ロジャーズ選集(上) 誠信書房
杉山登志郎(2019)発達性トラウマ障害と複雑性PTSDの治療 誠信書房
Callahan, R. J. (1991) Why do I eat when I’m not hungry? Doubleday
嶺輝子(2019)「楽になってはならない」という呪い:トラウマと心理的逆転 松本俊彦 「助けて」が言えない:SOSを出さない人に支援者は何ができるか 日本評論社
Millon, T., Grossman, S., Millon, C., Meagher, S., & Ramnath, R. (2004) Theodore, Personality Disorders in Modern Life. Wiley
森茂起(2005)トラウマの発見 講談社
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