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No.861 生のドラマ!

脚本家の山田太一氏が『男たちの旅路』(ガードマンという仕事を通して、戦中派と戦後派の様々な人間の価値観や信念を描いたヒューマンドラマ)を描いたのは1976年(昭和51年)以降です。両者の違いの中から生まれる反目と共感を浮き彫りにし、見る者の心に強い印象を残した作品です。
 
その山田太一氏は、ちょうどその頃、初めての仲人を体験していました。そのお話もまた、ドラマにできるほど心にしみるものです。「私立学校教職員共済組合」発行の小冊子の中の「いのち・ちょっといい話」(1991年版)にありました。最後に、じわっと感動が押し寄せます。長いのですが、是非とも最後までお付き合いください。
 
「 結納の涙  山田太一(シナリオ作家)
はじめて仲人をしたのは15年ほど前である。小さな建設会社の社員と川崎の大工場の女子工員との結婚であった。
 私が結びつけたわけではなく、スナックで知り合い、約束が出来てから頼まれたのである。
 気持ちのいい二人だから役に立つことに迷いはないのだが、どんなことをすればいいのか、さっぱり分からない。
『まずですね』と新郎になる青年がいう。『結納を持って、こいつの家へ行って貰えないですか?親父が同行します』
『そうしましょう』
 引受けた以上なんでもしようと思っていた。ところが女性の実家は北海道なのである。
『といっても千歳から車で1時間ちょっとです。飛行機なら栃木や群馬あたりより近いくらいです』
 そういえばそうであった。大安を選んで出掛けた。出掛ける前の日に俄か勉強で本を読んだ。結納で仲人はなにをすべきかというような本である。結構面倒くさい口上やら儀式が書いてある。それを暗記した。
 千歳空港には、親戚の青年が軽トラックで迎えに来てくれていて、運転席の横に新郎の父親と二人で乗って、新婦の家に向った。
 牧場がひらけ乳牛が散在する。絵に描いたような北海道の道路を走った。
 行先は炭鉱の町である。
 新婦の父親は炭鉱夫で、家は所謂炭住である。軒の低い二階建ての長屋の一画の家であった。
 六畳と四畳半ぐらいの広さの部屋に大勢の人が集まっていた。両親、弟妹、親戚に近所の人たちなのだが、こっちは緊張していて、紹介されても誰が誰だかほとんど頭に入らない。暗記してきた口上を忘れそうで、早く儀式をすませてしまいたい。
『それじゃあ、始めて貰いましょうか?』と新郎の父親がいう。
『はい』といったものの、部屋いっぱいの人たちの中で、どう始めたものか形がつかめない。みんなは一体なにを始めるのかという顔で私を見ている。
 大体仲人の本だと、新郎側と新婦側は別々の部屋にいるのである。仲人ははじめ新郎側にいて結納品を前にして、ではこれから新婦側にこれを持って参りますというようなことをいい、お願い申しますと新郎たちがいったりするのだが、そもそも新郎はいないし新婦もいない。みんな忙しいし旅費もかかるしというので二人でやって来たのである。
 それを新婦側が大勢で集ってにこにこ迎えてくれた。それでいいのではないか。『おめでとうございます。結納の品を持って参りました』ぐらいで充分ではないか、と主観的には思うのだが、新郎の父親にとっては一人息子の結納である。はるばる北海道まで来たのに、あんまりはしょっては貰いたくないという気持ちが溢れている。さあ格調高くお願いします、と隣で肩肘張っている。下町の乾物屋の主人で、律儀な人なのである。
 仕方がない。『えー』と私は声を上げた。
『つつしんで、これより結納の儀をとりおこなわせていただきます』
と平伏した。
 思わず笑う声が聞こえる。無理もない。顔を上げると、新婦の両親も照れたような顔で眼を泳がせ『そういうことは、私らはよく分からんもんで』『どうしたらいいか』と救いを求めるように振りかえったりしている。
『いいんです。実は私も俄か勉強で、なるべく本の通りにやるということですから』と新郎の父親を一方の端、新婦の両親を別の端に座って貰い、風呂敷をほどいて結納品の昆布だのなんだのを盆のようなものにのせて『では、行ってまいります』と新郎の父親にお辞儀をすると『お願いいたします』と父親は平伏する。
『なにやっとるの?』と子供の声がする。
『シーッ』とそれをまたたしなめる女の人の声がしたりして、壁に押し付けられたようにして場所をあけている人々も大変である。
 新婦の両親のところへ行って『えー、これから私が、持って来たというようなことをいいますから、合図をしたら、つつしんでお受けいたします。末永く、よろしくお願いします、といって下さい』と小さな声でいう。
『え?なに』
『つつしんで』と私が小声でくりかえす。
『つつしんで』と両親が小声で続く。
 いくら小声だって、小さな部屋だから、みんなに聞こえている。『つつしんで、お受けいたします、だよ』などと先におぼえてしまう人もいる。まるで落語だが、儀式なんてものは、どうせ滑稽なものである。はずかしがっていても仕様がないから、台詞をおぼえて貰っては先へ進み『えー、これにて御両家の結納、相ととのいました。幾久しく、御両家は仲良くお願いいたします』と忘れかけた口上をとり繕うので格調を欠いたりもしながら、なんとか終りに漕ぎつけた。
『おめでとうございます』
『おめでとうございます』と新郎の父親は大声で平伏する。
『終りましたァ』と私はつい軽薄な声になる。照れくささを無理矢理おさえてやり終えたから、ほっとして周囲に自分は儀式の好きな奇妙な人間ではないんだ、といい分けするような感じになり『まったく、こういうことは、はずかしいっていうか、まいるっていうか』と誰かの同意を求めながらあぐらをかいて、なに気なく新婦の両親の方を見た。
 どきりとした。
 母親も父親も涙を拭いているのである。
 それは一瞬であった。すぐ二人とも『いやいや御苦労さんでした』『ほんとに遠いところを』と笑顔で動きはじめるのだが、なに気なく見た時の泣いている二人の姿が忘れられない。胸をつかれた。
 私にとっては、ほとんど手続き以上のものではなかった結納の儀式が、娘さんの両親には、まったくちがう重みで届いていたのである。
 炭鉱で生れた一人の娘と両親の歳月をいきなりつきつけられたような思いで、頼まれ仲人は、たじろいだ。そういえば、どんな風に育ち、どんな風に別れて、川崎の大工場で働いているのか、くわしく聞きもしなかったと、おのれの軽薄を感じながら、私は正座した。」
 
いかがでしたか?山田太一というシナリオライターは、この時42歳か43歳だったろうと思われます。私学共済組合発行の小冊子に寄稿してもらった原稿ですから、なかなかお目にかかれない貴重なお話ではないでしょうか。

太一氏は、今は米寿でいらっしゃるはずです。今から45年ほども前のあの日のやり取りを、覚えておいででしょうか?


※画像は、我が娘の結納の御品として頂戴した有り難い思い出の1葉です。