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No.1087 待てますか?一緒に…。

2005年(平成17年)に『対岸の彼女』で直木賞を受賞した角田光代さんは、小説家だけでなく、児童文学作家・翻訳家としても活躍中です。
 
その人の「待つということ」(『何も持たず存在するということ』所収)というエッセーが、高校の教科書に載っています。その末文に心が行きました。
「(略)不安げな顔の女性をホームに残したまま地下鉄に乗った私は、そのときのことを思い出していた。いつになったら私は、バイクタクシーの彼ほど大人になれるのか。人のために時間を差し出せる、それを当然と思える、本当の大人になれるのか。年齢ばかり重ねた私は、いまだ子どものようにあくせくしている。早くしなさいと叱られる子どものように、そのことが少し、恥ずかしかった。」
 
タイのバイクタクシーの運転手が、バス停でなかなか来ないバスを待つ外国での不安な旅行者の私のために、炎天下の暑さにもかかわらず、自分の仕事のことも忘れて長い間一緒に待ってくれました。その実体験を元に「待つ」事の意味を自分に問うた作品です。
 
「待つ」と言えば、太宰治『斜陽』(1947年)の第四章の終わりに、弟の直治が師と仰ぐ小説家・上原二郎にあてた主人公・かず子の手紙の中にこんな言葉が出てきます。
「ああ、人間の生活には、喜んだり怒ったり悲しんだり憎んだり、いろいろの感情があるけれども、けれどもそれは人間の生活のほんの一パーセントを占めているだけの感情で、あとの九十九パーセントは、ただ待って暮らしているのではないでしょうか。幸福の足音が、廊下に聞えるのを今か今かと胸のつぶれる思いで待って、からっぽ。ああ、人間の生活って、あんまりみじめ。生れて来ないほうがよかったとみんなが考えているこの現実。そうして毎日、朝から晩まで、はかなく何かを待っている。みじめすぎます。生れて来てよかったと、ああ、いのちを、人間を、世の中を、よろこんでみとうございます。」
 
「99%、ただ待って暮らしている」
という言葉の裏にあるのは、退廃や諦めではなく、希望や祈りや願いや可能性が籠もっているのではないかと思います。
 
角田光代さんの言う「人の為に差し出せる時間が当然である」ように「待てる」自分になりたいものです。そんな思いにさせられる短いお話のご案内でした。


※画像は、クリエイター・---✂︎カセットboy ✂︎---さんの、タイトル「書棚からこにゃにゃちわ((≡゚♀゚≡))」の1葉をかたじけなくしました。書棚から顔を出す、人待ち顔のニャン君(さん?)の画です。お礼申し上げます。