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No.1204 笑う、山も膝も。

3月中旬~下旬にかけて使う春の季語が「山笑う」だそうですが、春が来ると彼女のこの詩のページを開きたくなります。

 笑う能力        茨木のり子
 「先生 お元気ですか
 我が家の姉もそろそろ色づいてまいりました」
 他家の姉が色づいたとて知ったことか
 手紙を受けとった教授は
 柿の書き間違いと気づくまで何秒くらいかかったか
 
 「次の会にはぜひお越し下さい
 枯木も山の賑わいですから」
 おっとっと それは老人の謙遜語で
 若者が年上のひとを誘う言葉ではない
 
 着飾った夫人たちの集うレストランの一角
 ウエーターがうやうやしくデザートの説明
 「洋梨のババロワでございます」
 「なに 洋梨のババア?」
 
 若い娘がだるそうに喋っていた
 あたしねぇ ポエムをひとつ作って
 彼に贈ったの 虫っていう題
 「あたし 蚤かダニになりたいの
 そうすれば二十四時間あなたにくっついていられる」
 はちゃめちゃな幅の広さよ ポエムとは
 
 言葉の脱臼 骨折 捻挫のさま
 いとをかしくて
 深夜 ひとり声たてて笑えば
 われながら鬼気迫るものあり
 ひやりともするのだが そんな時
 もう一人の私が耳もとで囁く
 「よろしい
 お前にはまだ笑う能力が残っている
 乏しい能力のひとつとして
 いまわのきわまで保つように」
 はィ 出来ますれば
 
 山笑う
 という日本語もいい
 春の微笑を通りすぎ
 山よ 新緑どよもして
 大いに笑え!
 気がつけば いつのまにか
 我が膝までが笑うようになっていた

(『倚りかからず』筑摩書房、1999年10月)
※「どよもして」とは「響もして」の字を当て「声や音を立てて響かせる」意の古語だそうです。

喜怒哀楽、どれも生きているからこその人間の感情です。「笑い」は、心にゆとりがあるからこそ生まれるものでしょうか。しかし、五木寛之『大河の一滴』の中で紹介されたように、シベリア抑留で精神の崩れそうな極限状態にありながら、絶望の淵にありながらも、人は美しい夕日に魂を揺さぶられ、にやりと笑みをこぼしたという話を読み、人間の尊厳を思いました。美しい世界が生み出した小さな笑みに、心の灯のような希望を感じました。
 
「笑う能力」のお話に思わず口角を上げたのは、茨木さんだけではないでしょう。膝までが笑うようになったのも、のり子さんだけではないでしょう。「笑い」の中に社会を見つめ、半生を見つめ、我が足元を見つめています。それこそ震えるような心の感動と寄り添いながら…。
 
「故郷や どちらを見ても 山笑う」
 正岡子規(1867年~1902年)


※画像は、クリエイター・りりかるさんの「春の小川」の1葉をかたじけなくしました。この季節の風情あるシーンです。お礼申します。