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No.912 「問わず語りの人間力原論」に思う

皆さんの地方では「イタドリ」(虎杖)のことを何と呼びますか?

「イタドリ」とは、若葉を揉んで擦り傷などで出血した個所に当てると多少ながら止血効果があり、痛みも和らぐとされ、痛みを取るから「痛取り」とされたという説がありました。「な~るほど~!」と妙に感心しました。

しかし、「語源由来辞典」(イタドリ/虎杖/いたどり)によれば、接頭語「イ」+「タド(蓼)」+接尾語「リ」と考えられ、これが「イタドリ」という和名の由来だとする説もありました。えっ?どっちなん??
 
イタドリを「虎杖」と書くのは、漢方でイタドリの根を「虎杖根(こじょうこん)」といい、茎の節ごとに赤紫の筋が入り、その筋が虎の縞々模様に似ていることから漢字の由来とするとは、先の「語源由来辞典」の説明です。これは、納得させられます。
 
さて、「大分合同新聞」(6月4日)の「GX PRESS」の欄に、日本文理大学人間力育成センター長・高見大介氏の「5月の僕とおじさん」という随想的コラムが載っていました。なんとも心惹かれるお話で、胸にとどめておきたいなと思いました。ご紹介させてください。

 全体にもやがかかったような、なんだかスッキリしないこの季節。人の気持ちも同じなのだろうか、研究室を訪ねてくる学生が増える時期でもある。
 彼らは「やる気が起きません」「なんだか不安になります」というようなことを口にする。僕は「ゆっくり少しずつでいいんだよ」程度の言葉しか、かけてあげられない自分にふがいなさを感じながら、小学生の頃のことを思い出した。
 兵庫県の田舎で育った僕は片道4キロほどある小学校に通っていた。クラスの中でも一番家が遠いので、下校時はだんだんと寂しくなる。ワイワイ話していた友達が1人減り、2人減りとしていくうち、とうとう自分一人になり、トボトボと田んぼの中にある田舎道を帰ることになるからだ。そうなると、さっきまで楽しかった心が急に「心細いな、疲れたな、のども渇いたな」となる。
 そんなことを繰り返していたある日、いつものようにうつむきながら1人で歩いていると、農作業しているおじさんが「おかえり、どうしたんや」と声をかけてくれたので「のどが渇いて疲れた」と力なく伝えた。するとおじさんは自分の腰をたたきながら「ついてこい」と言って、あぜ道を歩いた先の土手へ行き、ポキっと折った野草の皮をむいて僕にくれた。
 「かじってみろ」と渡されたその野草をためらいなくかじってみると、強烈な酸味の後にみずみずしさが口に広がる。「これは何?」と聞く僕におじさんは「イタドリや、帰る途中に疲れてのどが渇いたら、採って食べたらええ」と言い、僕の帰る方を指さした。
 そちらへ目を向けると、今まで気が付かなかったイタドリがたくさん生えている。それから僕は、宝物を見つけるように夢中になって、立派でおいしそうなイタドリを探しながら帰った。もちろん、さっきまでの寂しい気持ちはみじんもなくなっていたと思う。
 今思い返すと、下校中に毎日農作業をしていたあのおじさんのアドバイスは最高だった。代わり映えせずつまらないとすら思っていた日常に隠れていた自分が求めているもの、興味を引くものの存在を教えてくれたから。僕もいつかこんなすてきなアドバイスをできるようになりたいと強く思う。「ゆっくり少しずつでよいのだ」と。

「大分合同新聞」(6月4日)13ページ


このコラムの見出しは「問わず語りの人間力原論」といういかめしいものですが、サブタイトルは「5月の僕とおじさん」という親しみやすいものでした。人間力を導き出すアドバイスは、容易にできる事ではありませんが、生活の中から学んだ農夫の豊かな知恵とさりげない言葉が、高見先生の子ども時代に鮮やかな印象を残しています。それこそ、好奇心を育てる原風景だったように思います。
 
生きた教えとは何かを学びました。おじさんにも、イタドリにも。


※イタドリの花言葉の説明に、「ガクに包まれた実が、花のように美しいことから、『見かけによらない』という花言葉がつけられた」とありました。今日のお話の主人公だった高見少年も、イタドリに「見かけによらない力」を与えられたことでしょう。