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No.997 アンビリーバボーな人。

「わがままな道楽息子がひとりいる」
実際は2人目の妻となった壽衛子(旧姓、小澤 1873年~1928年)は、夫・牧野富太郎(1862年~1957年)のことをそのように冗談めかして人に言っていたそうですが、陰になり日向になり、金策に奔走して富太郎を支え続けた「内助の功」ある人物です。結婚したのは1888年(明治21年)のことで、富太郎は26歳、一目惚れされた壽衛子は15歳でした。

貧乏であっても、子孫繁栄を願う富太郎との間には、13人の子どもがあり、7人を失っています。それでも、子供の教育にも夫の研究にもお金がかかる、何とか貧乏から抜け出さねばなりません。一大決心をした壽衛子は、待ち合いのような料理屋「いまむら」を宮益坂で始めます。気持ちの良いもてなしが評判を呼んで、店は繁盛したそうです。
 
ところが、1923年(大正12年)9月1日、未曽有の大地震が東京を襲います。関東大震災です。渋谷の荒木山に一家は住んでいたようですが、東京中が焼け野原になったと言うのに、牧野家は多少の瓦が落ちただけだったとか…。まさにミラクルでした。
 
そのうち、大学で「牧野の妻は水商売をしている」と噂になり、景気の陰りの他、諸々あって壽衛子は思い切りよく店をたたみました。そして、武蔵野(現、練馬区)の大泉に広い土地を手に入れ、火事の難を逃れられるようにと、台所と離れたところに書斎や研究室を置いた家を建てました。1926年(大正15年)のことで、富太郎は64歳、壽衛子は53歳になっていました。
 
翌、1927年、ロシアのマキシモヴィッチ博士(1827年~1891年)の生誕百年記念の会が札幌で行われ、その帰りに富太郎は、教え子のいる仙台に立ち寄って植物採集を行いました。その時に見たことのないササを見つけたのです。裏に向って少し巻き込み、白い毛が生えて、柔らかくて繊細な感じのする笹だったそうです。
 
更に翌1928年(昭和3年)、あろうことか、苦労の連続だった寿衛子が原因不明の病気で体調を崩し、55歳の若さで亡くなってしまいました。富太郎は、前年に発見していた新種の笹に、妻を偲び感謝の気持ちを込めて「スエコザサ」(学名:ササ・スエコアナ・マキノ)と命名しました。
 
1912年(明治45年)に50歳で講師として東京帝国大学に復帰した富太郎は、1939年(昭和14年)77歳で講師を辞任しました。その間に古希を迎えましたが、ますます意気盛んな彼は、猛然と研究成果を本にまとめ始めます。壽衛子亡き後、二人の約束を果たさんとばかりに。
 
1934年(昭和 9年)、72歳で『牧野植物学全集』の刊行開始。
1937年(昭和12年)、75歳の時に『牧野植物学全集』で朝日文化賞を受賞。
1940年(昭和15年)、78歳で『牧野日本植物図鑑』を発行。
1941年(昭和16年)、79歳で満州へサクラの調査に赴く。
1948年(昭和23年)、86歳の時に天皇陛下へ御進講のご下命があり。
1949年(昭和24年)、87歳の時、危篤状態に陥りますが奇跡的に復活。
※このエピソードについては、驚くべき復活劇がありました。
 梅雨の頃、大腸炎を起こした富太郎は、状況が悪化し、昏睡状態となり、脈もふれなくなりました。「ご臨終です。」の医者の言葉に、家族や仲間が、涙ながらに末期の水を次々と口に含ませました。とその時、「ゴクリ」とノドボトケが動いてよみがえったと言います。
 まさにアンビリーバブル!強運の持ち主は、かくまで健在でした。
1951年(昭和26年)、89歳で第1回文化功労者に選ばれる。
1957年(昭和32年)1月18日、94歳で永眠。没後、従三位に叙され、勲二等旭日重光章と文化勲章を授与された。
 
その富太郎の墓碑には、
「家守りし 妻の恵みや わが学び」
「世の中の あらん限りや スエコ笹」
と、亡き夫人への限りない感謝と愛情を込めて詠んだ自作の句が刻まれているそうです。
 
さて、
「草を褥(しとね)に木の根を枕、花と恋して九十年」
と自らの人生を振り返り、
「植物を愛することは、私にとって一つの宗教である。」
という独自の宗教観を持ち、生涯貫き通した富太郎は、
「雑草という草はない。」
という名言も残しています。
 
この言葉には、興味深い話があります。

 若かりし頃雑誌記者をしていた周五郎が牧野のもとに取材に行ったとき、周五郎が「雑草」ということばを口走ると、牧野はなじるような口調で「世の中に“雑草”という草はない。どんな草にだって、ちゃんと名前がついている」と言ったのだそうだ。

「Japan Knowledge」 第506回「雑草」という草はないが、「雑草」はある(2023年06月05日)

とありました。山本周五郎は、1924年(大正13年)帝国興信所(現、帝国データバンク)に入社し、文書部に配属され、子会社である会員雑誌『日本魂』(にっぽんこん)の編集記者となったそうです。周五郎は21歳、富太郎は62歳でしたが、この頃すでに「雑草と言う草はない」という確固たる信念を富太郎は持っていたようです。

「雑草と言う草はない」とは昭和天皇もおっしゃったことが宮内庁の入江侍従長の話にも残されていたと思います。86歳の富太郎は、1949年(昭和24年)に48歳であられた昭和天皇(1901年~1989年)に植物学の御進講を申し上げていますから、この時に富太郎から薫陶よろしきを得られたのかも知れません。これぞ名言ですね!

朝ドラ「らんまん」を興味深く思いながら、その展開を見守っています。


※画像はクリエイター・tohrudcさんの、タイトル「やっぱりこれかな😆」から「スエコザサ」の1葉をかたじけなくしました。お礼申し上げます。