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沖縄本島のバスに系統番号はいつから付けられた?

路線バスには、会社を跨いで共通の系統番号がついているのが当たり前・・・というのは間違いであり、例えば、政令指定都市である宮城県仙台市だと「仙台市営バス」には系統番号がついているが、「宮城交通」にはそもそも系統番号が存在しないし、同じく政令市である福岡市北九州市だと「北九州市営バス」と「西鉄バス北九州」ともに系統番号は付与されているが、共通ではないため同じ番号でも違う路線となる。

そういう事情を知っていると、4社もバス会社があるなかで、共通化が図られていて、同じ系統番号であれば会社が違っても同じ路線という沖縄本島の路線バスに導入されている系統番号のシステムはかなり画期的だと思われる。
そんな系統番号が沖縄本島のバスに初めて付与された時期を探索してみた。

バス会社は把握していない模様

2011年4月28日付の週刊レキオ(琉球新報の副読紙)に、系統番号がどのように決められたのかを調査した記事がある。冒頭で誰が決めたのかという質問をぶつけているが、尋ねられた琉球バス交通の業務部長が子供の頃にはすでに付与されていたとあり、バス会社でもいつから付与されたかは把握していないようである。

系統番号どう決める?
 バス…ではなく車でやってきたのは、株式会社琉球バス交通。対応していただいたのは業部課・部長の真栄城朝雄さんと、上原龍さん。
 まずは、ソナタ、系統番号決定者はドナタ?と伺ってみた。
 「う~ん。誰が決めたかというのは、あまりにも古い話ですので、ちょっと分からないですねぇ。なにしろ、私が子供の時ですら、バスには系統番号が付いていましたからねぇ(笑)。ただ、番号の申請は県の総合事務局に出しますからおそらく、当時の各バス会社の事務局担当者ではないかとしか言えないですね」と真栄城さん。

「島ネタCHOSA班」2011年04月28日[No.1361]号(2011年4月28日 週刊レキオ)

系統番号が文献で初めて出てくるのは1975年

1969年3月31日時点のバス路線一覧$${^1}$$を見ると、会社ごとに連番は振られているが、現在のように会社間を跨いだ系統番号は振られていなさそうである。

一方、間が5年ほど飛んで1975年3月31日時点のバス路線一覧$${^2}$$を見ると、那覇市内線には系統番号の記載がないが、市外線には現在同様に20番以降の番号が振られていた。
なぜ市外線だけに振られているのかは不明だが、その後の1975年7月1日に発行された書籍に記載のバス路線一覧$${^3}$$を見ると、こちらには那覇市内線を含めて、全ての路線に系統番号が振られていることから、事務手続き上の問題で、市内線だけ付与が遅れたのであろうか。

手元にある文献で確認できる範囲だと、1969年3月末までは系統番号は無く、1975年3月末には系統番号が付与されているところまで確認ができた。

本土復帰前は系統番号無し

ほかに系統番号の付与が確認できる資料としては、バスの写真であろう。
ただ今はデジカメや携帯で簡単に写真が撮れるが、ひと昔前はカメラも高いし、現像にもお金がかかるで、観光地で観光バスを背景にした写真は幾つかあるものの、1978年の730の前後を除くと、路線バスを被写体とした写真はかなり限られてくる。

まずは1969年以降を順に探してみた。
1970年、1971年の写真は見つけきれずで、ようやく本土復帰という一大イベント直前の1972年3月当時のバスが写った写真を見つけた。

1972年3月当時は系統番号は無し
(沖縄県公文書館所蔵の写真【写真番号:054512】を筆者が加工)

映っているのは現在の県庁北口バス停から那覇バスターミナル方向へ走行する東陽バスの泡瀬東線(現在の系統番号は30番)であるが、こちらには系統番号は見当たらない。

ほかにも下記リンク先の写真は、正確な時期は不明だが、ナンバープレートがアメリカ式であり、横断幕から本土復帰直前と思われるが、映っている琉球バスの浦添線(現在の系統番号は56番)には、系統番号は見当たらない。

よって本土復帰直前の1972年3月までは系統番号は付与されていなかったということになる。

ちょうどいい写真が見つからない

このような感じてバスを前から撮った写真が、本土復帰直後の1972年5月以降であればよかったのだが、そんな都合の良い写真は見つけきれず・・・。
しかも1972年だけでなく、翌1973年、1974年の写真も見つからない。
ようやく見つかったのは1975年に「クリーン沖縄の清掃」の様子を撮影した写真である。

1975年当時は系統番号があった
(沖縄県公文書館所蔵の写真【写真番号:074290】を筆者が加工)

被写体がバスではないので、かなりピンボケしているが、方向幕に⑩という数字が確認できる。前述の1975年7月1日に発行書籍に記載のバス路線一覧$${^3}$$によると、那覇交通が運行していた大嶺ー安謝線のようである。

ただこれでは結局、最初の文献からわかる情報と同じく1975年時点では既に系統番号が付与されていたということしか判明しなかった。

結論が出ずで申し訳ないが、時間を見つけて懲りずに過去の写真を探してみたいと思う。

おまけ

念のため先に言うと、凄くしょうもないおまけである。
改めて一番最初の副読誌の記事に戻ってみる。

系統番号どう決める?
 バス…ではなく車でやってきたのは、株式会社琉球バス交通。対応していただいたのは業部課・部長の真栄城朝雄さんと、上原龍さん。
 まずは、ソナタ、系統番号決定者はドナタ?と伺ってみた。
 「う~ん。誰が決めたかというのは、あまりにも古い話ですので、ちょっと分からないですねぇ。なにしろ、私が子供の時ですら、バスには系統番号が付いていましたからねぇ(笑)。ただ、番号の申請は県の総合事務局に出しますからおそらく、当時の各バス会社の事務局担当者ではないかとしか言えないですね」と真栄城さん。

「島ネタCHOSA班」2011年04月28日[No.1361]号(2011年4月28日 週刊レキオ)

この記事から系統番号が付与された時期を想定してみたいと思う。
まず初めに、部長の平均年齢は約52歳$${^4}$$だそうなので、この記事に出てくる真栄城業務部長の2011年当時の年齢を勝手に52歳だとする。
次に、子供の時を小学校低学年の6~8歳ごろと想定して、勝手に7歳だとする。
ここで、2011年当時52歳だった人が、7歳であるのは45年前である。
よって、2011年の45年前は既に系統番号が付与されていた!

・・・というまったくもって根拠もない想定で、この記事を書き始めたのだが、2011年の45年前は1966年であり、既に周知の通り、文献でも写真でも付与されていないことがわかったので、早々にこの書き出しはボツにした。
ただ、部長の平均年齢を調べて、かつ算数までして導き出した一案なので、「おまけ」として載せておく。
(部長の年齢が違っているのかなぁ。)

脚注

  1. 陸運関係資料 バス関係財務諸表(1968年10月~1970年10月 琉球政府企画局企画部)p.155

  2. 昭和50年度 業務概況(1975年7月 沖縄県陸運事務所発行)

  3. バス・タクシー・ハイヤー運賃及び粁程表(1975年7月 沖縄観光速報発行)

  4. 管理職に就ける年齢は?昇進するために求められるスキルについても解説(2022年9月 Indeed キャリアガイド編集部)


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