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沖縄で農業を志すみんなへ(2022改)

これから沖縄で就農を考えてるみんなへ
「2009年2月、沖縄県名護市にて就農3年未満の新規就農者8名で任意出荷クループ、「沖縄畑人くらぶ」を発足。ここまでくるのに6年もかかってしまった。」

私は沖縄に来る前は、東京を中心に13年間、有機農産物の宅配事業、外食関係の卸業者、自然食品店などへの卸業者で農産物の流通の仕事をしていた。
 仕事上、産地研修や収穫祭など農家さんと接する機会が多かったので、元々デスクワークが苦手な私が、この流通の一番の川上である農業に興味を持つことは当然だった。そしてそれを後押ししたのが、市場外流通いわゆる直接流通の仕組みだった。直接流通というのは、市場を通さずに農家と直接契約して消費者へ届けるという仕組み。今ではあたり前だけど、当時は特に有機農産物など見た目ではなく栽培方法や味などにこだわった農産物は市場では、評価されないことが多かったので、この直接流通が広がっていったようです。
価格も市場価格とは違い安定的で、目に見えないこだわりが評価される。
なんて素晴らしいシステムだと思ったのを覚えている。でも全てがそんなキレイな流れでは無かった。
 恐らくどの業界も同じなんだろうと思いますが、農産物の直接流通のシンプルな仕組みだと生産者→流通業者→量販店(小売店)→消費者になります。
 疑問を持ったのが、自分が携わってきたこの中間の流通部分。この流通業者が1社ならシンプルなんですが、2社とかそれ以上あったりすることがある。野菜は物流としては農家から直接小売店などに届けられるが、商流、いわゆるお金の流れは数社を通って消費者への価格として反映される。
「有機農産物などこだわって作った作物は手間がかかり、収量も上がらないから価格が高い」もちろんその理由もあるけど、もう一つの理由として流通上の問題もあるんだということを感じた。

そこで、自分が農業をやるのであれば、流通を生産側にくっつけた一体型の生産グループができれば、余計なお金が落ちずに農家の収益も上がり、消費者へも還元ができる。これを実現できれば、収益性の高い安定した農業経営ができると確信し、沖縄家の移住を決意。

そこからは、何も考えず一気に夢に向かってまっしぐらだった。

まずはどこで農業をやるか。33歳からのスタートだったので、一年中農業ができるところ=雪があまり降らないところを探そうと。ずっとお世話になっていた先輩が全国の農家を回り作付などの計画を立てる農産担当だったので、一年中農業ができる場所で研修を受け入れる農家さんを探して欲しいとお願い。

すぐさま、「来月沖縄に行くけど一緒に行くか?」と。

沖縄?全く想定していなかった地域。観光でも行ったこともなかった。

調べてみると、沖縄は秋から春にかけてピーマン、トマト、ナス、キュウリ、サヤインゲンなど内地(九州より上の日本)の夏の野菜が栽培できるらしい。

野菜の産地リレーは大体九州から始まって北上し、北海道までいくと九州に戻るんですが、その間が少しある。その間を埋めるのに外国産の農産物などか主に外食などで流通していたので、国産で回せるのなら絶対に国産がいいに決まってる!

その間に沖縄がもっともっと入ることができれば、競合もいない。

さらに、島野菜と言われる、島らっきょう、島にんじん、島にんにく、青パパイヤなど沖縄在来の農産物、沖縄で昔から食べられていた長寿の源だと思われる野菜たち。

沖縄でしかできない時期の農産物、そして沖縄ならではの島野菜。この2つを主軸に農業を営めば、いけるはず。

決まった!早速同行のお願いをして研修先探しで沖縄初上陸。

作付けの打ち合わせで回る農家さん1軒1軒に事情を説明して研修受入を打診。すると運がいいことに中部地区の具志川市(現うるま市)のハーブ農家さんが研修を受け入れてくれるということに。ここでももちろん即決。

思いたってからここまでが怖すぎるぐらいスムーズに進んだ。東京に戻り大きな夢と計画を胸に2003年6月、畑近くの沖縄県石川市へ移住。

約半年間の研修を終え、家からは少し離れていたのですが、研修中に知り合った方の畑を借りられることになり与勝半島勝連城跡の下の露地畑500坪ほどで独立スタート。
春からのスタートだったので、オクラとゴーヤーを栽培。
 甘かった、、、。農業は1人では絶対にできないんだということを実感しました。半年間の研修で、知り合った人はホントに一握り。そして市町村や県などの農業関係の窓口にも行ったこともなく、何かあっても基本的には一人で解決しなければいけなかった。

畑とちょっとした道具はなんとか借りられたけど、「オクラがこんなだけどどうしたらいいの?ゴーヤーは元気ないけど何をあげたらいいの?」といった基本がなんにも解ってないのに、頼れる人脈も作らずに独立をしてしまった。大きな間違えだった。

ここからはまっ逆さま。何も手を尽くしてあげられなかったオクラとゴーヤーに沖縄の夏の台風が直撃。オクラは再起不能、ゴーヤーはみんな無くなってしまいました。

畑の作物は全滅、そしてほんの少しだけ残っていた独立資金もゼロに。

もうどうにもならなかった。冷静になって、もう一度一からやり直そう。そして、技術を覚えるだけじゃダメだ。たくさんの人と出会わなければ!と猛省して、沖縄県農業会議の新規就農相談センターへ駆け込んだ。

そこで紹介されたのが、糸満市の農家さん。年は私よりちょっと上ぐらいなので話しも合うアニキ的な関係に。こちらでは技術的なことはもちろんのこと。たくさんの人と出会うことができた。農協の職員の方々、先輩農家さん、県の農業改良普及センターの方々などなど。

「こんな時には彼に頼みなさい。こういう場合はここへ相談に行きなさい。」というように問題が起こっても頼れる方々が一気に増えた。

たくさん学びたくさん出会った一年間の研修を終え、今度こそ独立という時に新たな問題が発生。貸してもらえる畑がない!遊休地はたくさんあるんだけど、いくら知り合いが増えたとはいえ、やっぱり外からの人間にハイどうぞと貸してくれる畑はなかなかない。

いろいろな方々に相談に乗ってもらったが、ここっ!という畑が見つからなかったので、結局もう少し研修を続けることにした。

それからさらに3カ月、計2件の農家さんで研修をして、来沖3年目の秋ようやく500坪のパイプハウスを借りることができた。しかしそこには水もなく水道水を引いて農業をするというのが条件。

たくさんの友人、知人、先輩の力を借りて、どうにかちょっとしたアルバイトとこの500坪の畑で生活ができるようになった。でも、そこから先が見えなかった。
糸満時代に知り合いになった当時農協の職員だったTさんに、「これ以上ここで農地の拡大を図ろうとしても無理そうなので、いっそのことやんばる(北部)へ行って大きな畑を借りて農業がしたい」と相談。

確かにやんばるに行けば土地も見つけやすいだろうけど、人とのつながりはまた一から始めないといけない。たくさんの方と出会い、地域にもようやく馴染んできた時だったので大きな決断だった。

相談をして少したったある日Tさんから電話があり、目ぼしい畑が見つかったと。すぐに見学させてもらい最後の賭けとばかりにほぼ即決。

2008年4月、やんばる(北部地区)での就農スタート。パイプハウスの施設で1200坪。1人でやるには十分だった。ここからはもう必死に取り組んだ。来沖した時の夢や計画なんて、頭の隅からも消え、ただ食べるために畑を耕し、種を蒔き、育て、そして収穫する毎日。

収穫が始まると少しだけホッとしたのか、周りをみることができるようになってきた。

近くの直売所の友人といろいろ話をしていく中で、やっぱりみんな出荷先で悩んでいるようだ。聞いてみると、自分と同じようなかたちで新規で就農した人がたくさんいるようだった。

ここで、忘れかけていた沖縄に来た時の夢を思い出した。

さっそく友人に頼み、近隣の新規就農者4名と出会った。記憶の奥底に眠っていた思いをひたすらみんなに伝えた。

我々のような零細農家は、市場出荷ではなく、栽培にもこだわり直接取引先と契約を結んで、作物を栽培していかないと生き残れない。しかも個々ではなくグループを組んで、計画的に量、種類もある程度そろえることが大事。そのためには・・・・・とずっと思い続けていた夢をひたすら説明した。

もちろん、初めはみんな半信半疑。そんな中でも興味を示してくれた方から少しづつ取引を開始。

全量をとるということまではいかないものの、ある程度の量を一定の価格で出荷をしていくので、市場出荷とは違い、先の計算ができる。数ヶ月間これを続けていき、みんなの気持ちも動いてきた。

そして2009年2月、沖縄県名護市にて就農3年未満の新規就農者8名で任意の出荷クループ、「沖縄畑人くらぶ」を発足。ここまでくるのに6年もかかった。

8名の内訳はうちなーんちゅ(沖縄出身者)4名、移住者4名のチャンプルー集団。全員が前職が農業以外の新規就農者。そしてこれが最大の持ち味だったりした。デザイナーだったYはくらぶのロゴ作成から名刺やリーフレットなど印刷物の担当。左官屋だったTは畑の水回りをアドバイス。経理だったMはみんなの申告などの相談役。そして一番強かったのが、うちなーんちゅのメンバーの地域力だった。農地を拡大したいメンバーの相談に乗り、両親や親戚知人などから情報を収集し、さらに彼らの紹介なら貸してもいいよ、という信頼が大きく作用した。

基本的な活動は月1回の勉強会。北部農業改良普及センターの小橋川課長に指導をお願いし、前半は、メンバーの圃場を回りながら現地検討会、そして後半は有識者を招いての座学。そして、ざっくばらんに話し合い交流会を実施。
2022年、13年経っても継続している。

この勉強会の特徴は、メンバー以外の方でも参加が自由なところ。特に、これから就農を考えてる若者に参加して欲しくて自由にしている。現在メンバーは12名、そして研修生が2名、全てが新規就農者なんですが、就農までのアプローチが全員違う。

沖縄では、「就農したい人はまずここへいってこうしたら就農できます。」という指針になるようなものがない。相談する機関はたくさんあるが、実際に就農するまでの工程は各々の動きで決まっていく。なので、勉強会に参加して12名全員の生の就農までのプロセスを聞けるということは、凄く意味のあることだと思っている。

私はメンバーの中でも特に就農までに時間がかかった1人だが、この体験を聞けるというのは、就農までの近道にも繋がると思っている。

発足して13年が経ち、「食える農家」=「その地域に根付いて、専業農家として家族を養っていく。」という目標へはまだたどり着いていませんが、今ではメンバー全員しっかりと将来を見据えて毎日、「おいしい うれしい たのしい野菜」作りをモットーに農業に励んでいる。

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