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僕がOkinawan Identityを獲得するまで〜②家系図

家系図を初めて見た時の衝撃

今から約25年も前のことなので記憶も曖昧だが、たぶん、留学して1年半後に初めて沖縄に帰ってきた夏休みのある日、僕は父の書斎で初めて家系図を見た。

当時、粟国島出身で僕らと親戚だという女性の方が、家系図の作成などルーツに関して色々調べているということで父を頼って訪ねて来られたそうで、その時にいただいたものだ。

縦書きの写真を横に載せてます

その家系図は1600年代まで遡って書かれていた。
その起点が粟国島の与那城親雲上(ペーチン)という方で、その子の里忠(リチュウ)という方が首里に渡り、王府に仕えて新里という姓を名乗り筑登之親雲上(チクドゥンペーチン)にまでなられたそう。

本部町新里にある元祖家(ぐゎんすやー)という仏壇を見るべき人(継承権のある人)がいない為、先祖の土地に位牌と香炉を安置して祀ってる家(誰も住んでいない)に、その里忠さんの位牌もある。

本部町の新里部落はこの粟国出身の新里里忠さんが屋取(ヤードゥイ)し、開墾して開いたとも聞いた。

しかし新里家のルーツは父方が今帰仁村の湧川新里で、母方は本部町の並里から来たという話も聞くので、粟国島とそれがどのような繋がりになるのかずっと謎だったが、
「もしかしたらこの新里里忠さんの父親、与那城親雲上かその上の祖先が今帰仁村か本部町の出身かもしれない!」と、今日思いついた。

以前、親戚が集まる場で質問しても粟国島との関係性を詳しく説明できる人がいなかったのでいつか家譜を公文書館で調べてみたい。

前置きが長くなったが、当時初めて我が家の家系図があったと知り、それを広げて見ると、脈々と繋がった「里」がつく名乗頭(ナノリガシラ)の付いた名前。

男子の名前に新里 里○と名前の頭に「里」が付くのだが、それは父の名もそうだし既に知っていた事だったのだが、実際に上から下までずっとそれが数百年も全員連なって並んでるのを目の当たりにして感動とショックと、少し申し訳ないような気持ちになった。

なぜなら僕の名前は玲王奈と言って里の字を受け継いでいない。
と言っても、自分の名前は気に入っていた。
親からあれこれと悩んで名付けたとか、レオナのオの字を王の字にした時のストーリーなど色々聞いていたし、よく女の子と間違われて面倒臭いこともあったが、誰もが覚えてくれる珍しい名前と漢字なので一度も自分の名前を嫌だと思ったことはなかったのだが、この時初めて少しだけ申し訳ない気持ちになった。

僕だけじゃなく、従兄弟らも里を受け継いでいないので、ちょうど親の世代まで慣習として受け継いで、僕ら世代になると親も自由に子供の名前を付けたくなったんだろうなと思う。

ただ、この事が、既に留学してアイデンティティに悩んだり、うちなーんちゅはどこから来たのか?など、自分のルーツについてあれこれ考えてた熱を、更に加速させたのは間違いない。




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