董卓怒り

董卓が長安に遷都したのは韓遂のせいだった?


 霊帝死後の洛陽の政治の空白を突いて朝廷を思うがままに牛耳り、
三国志に至る扉を開いた稀代の暴君、董卓、そんな董卓の悪行として後漢の帝都であった洛陽を焼き払い、長安に遷都したという事が挙げられます。

気まぐれに都まで捨ててしまう悪逆な独裁者、そんな董卓のイメージに
ピッタリな振る舞いですが、実は長安遷都は董卓の思い付きではなく
周到に計算されていて、そして背後には韓遂の影もあったようなのです。

正史三国志董卓伝を補う華嶠の漢書

それは、正史三国志董卓伝を補う華嶠の漢書に登場します。
これによると、董卓は重臣会議で遷都を持ち掛けますが、
司徒の楊彪が激しく反対しました。

楊彪の言い分は、戦乱の時代なら兎も角、今は太平であり遷都などする必要はない、強行すればむしろ人心は動揺するというものです。

董卓は、長安は漢の高祖も拠点とした穀倉地帯で、ここまで下がれば賊軍の誰かが攻め込んできても私の軍が撃退できると言いますが、楊彪も他の重臣も納得しません。

そこで、血相を変えた董卓は、
「辺章と韓約(韓遂)から手紙が来て、何としても長安に遷都して欲しいと言ってきている、もし連中の大軍が東にやってきたら悪いけど俺の軍勢ではどうにも出来ないから君は故郷がある西に帰るがよい」と突き放したとあるのです。

董卓の主張は苦し紛れの言い訳なのか?

こちらの華嶠の漢書に続く続漢書の記述では、
董卓は、前漢の高祖が長安を都にして十一代で前漢は滅び光武帝が登場し洛陽を都にしてから十一代だから、次は再び長安を都とするべきと主張したとして、董卓が無理矢理に遷都を望んだかのように書いています。

つまり、裴松之は、漢書と続漢書を続けて補う事により、
辺章と韓約から遷都を望む手紙が来た等というのは董卓の出まかせか
臆病な文官を脅す為の嘘だと匂わせているわけですが
本当にそうなのでしょうか?
果たして、韓遂、辺章の反乱は董卓が無視できるものだったのでしょうか?

決して勢力を消滅させたわけではない韓遂

西暦187年に羌族や氐族の反乱に呼応して兵を挙げた韓遂ですが、
これに馬騰も加わり、兵力を増大させ、三輔(関中)にまで
侵攻してきました。
韓遂は王国を盟主にして陳倉城を包囲しますが、容易に落とす事は出来ずに、そこに皇甫嵩と董卓の援軍がやってきて撃破されます。

韓遂は盟主の王国に責任を被せて逃げその後、信都の県令を務めた
閻忠という男を立てて三十六部のボスにしようとしますが
兵力で無理強いしたので閻忠は屈辱を感じて憤死、その後、軍勢はバラバラになりお互いに抗争を繰り返すようになったのです。

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