孔明死す

【歴史の盲点】費禕は諸葛亮の後継者ではなかった!


 かなり注意深く正史三国志を読んでいる人でも、
いつの間にか演義に影響される事があります。
例えば諸葛亮の陣没のシーンがそうです。

諸葛亮は勅使の李福の問いに答えて自分の後継者として蔣琬を指名し、
その次には費禕を指名した、さらに李福がその次を求めると、
その時には、すでに諸葛亮は事切れていた。

多くの人は、この事に疑問を持たないですが
実は諸葛亮が指名した後継者は、蔣琬だけで費禕を指名したという記述は
正史の本文にはないのです。
そう、皆、当たり前に思い込んでいた諸葛亮→蔣琬→費禕のバトンは、
本当は孔明が決めたものではないかも知れません。

費禕について言及したのは益部耆旧雑記

正史三国志の諸葛亮伝に出てくる孔明の死は非常にシンプルです。

十二年春 亮悉大衆由斜谷出 以流馬運、據武功五丈原 
與司馬宣王 對於渭南亮毎患糧不繼 使己志不申 是以分兵屯田
為久駐之基 耕者雜於渭濱居民之間 而百姓安堵 軍無私焉 
相持百餘日 其年八月 亮疾病、卒于軍 時年五十四

太字の西暦234年8月諸葛亮は病を得て軍中で死んだ享年54
たったこれだけが、諸葛亮の死についての正史の記述です。
病状はおろか後継者云々の話すら書かれてはいません。

実は、諸葛亮の死の前後について触れた文書は
陳寿が正史三国志を書く前に記述した益部耆旧雑記に出てくる話で、
裴松之により補われる形で出てくるのみなんです。

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