劉弁

少帝劉弁は本当に無能な皇帝だったのか?

 少帝劉弁は、後漢のラストエンペラーである献帝劉協の異母兄です。
しかし、僅か半年という在位期間で董卓によって廃されたので少帝と称され
懐王、弘農王と諡されたので後漢の皇帝に数えられない事もあります。
割合、尊皇心があった曹操が劉弁の墓の前を通った時に参拝すべきか?と
王朗に問い

「この方は皇帝ではありませんので必要ありません」と言われています。
三国志演義では幼帝として描かれ、暗愚な皇帝として董卓に廃されますが、
本当に少帝は暗愚だったのでしょうか?

董卓とのエピソードは、少帝の暗愚を意味するのか?


少帝暗愚説の根拠は後漢書董卓伝のエピソードにあります。

前略ー虎賁中郎将袁術が南宮を焼いて、宦官を討とうと欲した。
中常侍段珪等は少帝及び陳留王を誘拐して小平津に深夜走った。
董卓は洛陽に火が起つのを遠くより確認して変事が起きたと見て
兵を引き連れて急いで進んで未明に洛陽城の西に到達した。
聞くと少帝が北芒にいるとのことで、これを迎えて奉迎した。
少帝は董卓が兵を卒いてやって来る様子に恐怖し涕泣した
董卓は会見して、あれこれ状況を聞こうとしたが話がかみ合わず、
次は弟の陳留王と言葉を交わし、洛陽で何が起きたかを知った。
董卓はこれで陳留王をして賢いと見、さらに董太后が陳留王を
養っていたので董太后を同族と捉え、少帝廃立の意を持ったー後略

確かに、これだけを見ると、少帝は董卓の威容に腰を抜かして泣き出す暗君で、逆に弟の陳留王は、董卓に堂々と宮廷で何が起きたかを話す聡明な人に見えます。
しかし、どうも、この記述、腑に落ちない所が多いのです。

董卓に遭遇した時、少帝は16歳であり陳留王は9歳


三国志演義では、あまり年齢差がないように描かれる少帝と陳留王ですが、
実際には少帝は16歳と7歳も年上でした。
そこからは、何が導きだせるでしょう、第一には少帝には、ある程度、
宮廷とその周囲の事態が見渡せる年齢であるのに対し、陳留王は、
そうではないという事です。

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