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岡田さん

僕には描きたいものがなく、彼女にはあった。

 小学校四年生のころ校外学習と称してキャンプに行った。確か茨城と福島の県境に近い山の中だったと思う。オリエンテーリングやら飯ごう炊さんやら一通りのイベントをこなしたはずだが、あまり覚えていない。翌週、図工の時間でキャンプの思い出を描くという課題が出た。


 僕が何の絵を描いたか、まったく覚えていない。覚えているのは一人の女子が描いた一枚の水彩画だけだ。教室に全員の絵が貼り出されたとき、その絵はすぐ目に留まった。画用紙の縁に白い枠のようなものが描いてあって、数人の女子たちが笑ってみんな正面を向いている。その後ろには野山の風景があった。

これは写真を模している絵だ、とすぐに気づいた。

そしてもう一つ気づいたことがあった。その絵を描いたのは岡田さんという女子だったのだが、彼女らしき人物が描かれていなかった。人物の描き分けができていなかったわけではない。彼女は画塾に通っていたらしく、描画の技術は他の子より抜きんでていた。細やかに色を使った背景のタッチ、それとなく特徴を捉えて描かれた登場人物。よく見ればクラスメイトの女子の誰かだとわかった。一方で岡田さんは同学年でも大柄な方で、しかも外国人の血を引いているとかいう噂が出るぐらい顔の彫はくっきりしていたのだが、そんな特徴の女の子はいなかった。つまり彼女は自分を描かなかったのだ。


 岡田さんの絵は明らかに異色だった。 他のどの子も一緒に遊ぶ自分と友達とか、料理をする自分とか、自分を含んだ絵を描いていた。俯瞰的な視点で自分を描いていた。僕の絵もたぶんそうだったろう。もちろんそれで何ら問題があるわけではない。課題が「キャンプの思い出」なのだから、自分の印象に残ったエピソードを、自分込みで描くのはきわめてオーソドックスな方法だ。

 僕の小学校ではキャンプなどでカメラを持ってくるのは禁止だった。写真を撮るのは先生の仕事で、あとで焼き増ししたい写真を申請して買うシステムだった。六年生の修学旅行などでこっそり写ルンですを持ってきている人を見た記憶はあるけれど、四年生のキャンプでそんな度胸のある子はいなかったのではないか。

 つまり岡田さんが描いていたのは、撮ることの叶わなかったキャンプの記念写真だった、と解釈できよう。彼女が撮りたかったのは友達の女の子たちとの楽しい瞬間だったのかもしれない。とすれば、写真を模した絵にあって、描かれていない岡田さん自身がいたのは絵の手前だったのだ。その絵を見た僕は、写真を撮る岡田さんの視点を思った。


 この手の学年全体に出された課題は、最初こそ各教室の廊下に全員分が貼り出されるが、一定期間を過ぎると優秀な作品だけが選ばれ、職員室近くの廊下に貼り出されることになる。誰が選んでいたのかは知らないが、その選抜が栄誉であることは誰も知っていた。

 僕は選抜されることがよくあったので、絵は得意な方だと言う自負があった。そして岡田さんは別格で、必ず選抜されていた。それぐらい群を抜いて巧かったのだ。しかしこのキャンプの絵のときだけ、岡田さんは選から漏れた。


 僕は心底驚いた。岡田さんの絵はそのコンセプトから言って他の子どもたちと一線を画していたからだ。当時の僕はそれを上手く言葉にできなかったけれど、今の僕ならこう言うだろう。彼女の絵は、彼女にとって友達たちと笑い合うその瞬間こそがキャンプの思い出であることを、彼女の視点を通して鑑賞者に追体験させようとする。僕がおそらく描いたであろう俯瞰的な視点は、ただあったことを絵を描いているに過ぎず、鑑賞者と絵の中の世界は隔たれたままだ。どちらがより「キャンプの思い出」を観る者に伝えるかは明らかだろう。

 岡田さんを勝手にライバル視していたさしもの僕も、今回ばかりは負けを認めざるを得ないと思っていた。にもかかわらず岡田さんの絵は、先生に認められなかったのだ。ここから先は僕の記憶が曖昧なのだが、岡田さん自身がその理由を先生に尋ねる場面をみた気がする。これが事実なら、彼女としても納得いかなかったということになる。先生がなんと答えたかまでは覚えていない。

 小学校四年生の描く絵としてはコンセプトが大人び過ぎていて不興を買ったのか、それともカメラ持参禁止への抗議と受け取られたのか、わからない。

 そういえば僕の絵はあのとき選抜されたのだっけか。これが全然記憶にないのだ。自分が何を描いたのかも覚えていないのだから当然かもしれない。それは僕があのキャンプで、形に残るものとして留めておきたいと思う何か、例えば写真を撮りたいと思うような瞬間に、出会わなかったということだろう。


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