たらこパスタのきざみ海苔と初音ミク

十年ぐらい前、妻がまだ彼女というポジションだったときの話。
つき合いだしてしばらく経ち、彼女の住んでいるワンルームの部屋に通うようになって、気付いたことがあった。

夕方近くになると腹が減る。お金もそんなにないのでどう済ますかと話していると、彼女がうちにあるものでよければと提案してくる。
そんなときに作ってくれるメニューがほぼ必ずたらこパスタだったのである。
たぶんキューピーの「あえるパスタソース」だったように思う。もしくはその模倣品。

美味しいパスタ作ってくれたお前家庭的だとかなんとかいう歌詞があったが、このパスタソースは家庭的か否かを考えるさせる間もないほど瞬時に完成する手軽さを売りにしていた。
ゆでたパスタにスティック状のソースをひねり出して混ぜる。そして付属のきざみ海苔をかければ完成である。

簡単とはいえ、ひと手間かけて作ってくれた飯を、もちろん僕はありがたくいただいた。
ただ一つだけ問題があった。僕はたらこがそんなに好きではなかったのである。

もそもそ、ぶつぶつとした食感、魚卵の独特の風味、かすかに混ざるマヨネーズの味。しかもソースの量が少なく、味が薄い。
「食えるけど……」という味である。
レトルトのパスタソースの中でも最も安い価格帯だった。

当時の彼女は料理というものの経験がまるでなく、またついでに必要性も感じていなかったようで、お湯を沸かすことしかできなかったし、しなかった。
だから彼女が鍋を使ってする料理といえばパスタぐらいのものだった。
そして彼女は同じ食事がずっと続いても構わない人であり、たらこが好きだった。
だから彼女の家には在庫の切れない大量のパスタと、大量のたらこソースがあったのだった。

彼女の家で「ありもの」の夕飯を摂ると、必ずたらこパスタになる。
僕は付き合って数か月でそのことを学んだのである。

飯をもらっている手前、文句は言えない。
次第に僕は、彼女の家に行く際には前もってミートソースなど別のソースを持参したりするようになった。
僕が適当な料理を作ってふるまうこともあった。
でもいつもそうしていたわけではなく、不意に腹が減って外食する気力もない夜は、やはり例のたらこパスタが登場するのである。

最近の妻の料理の腕はあの頃と比べようもなく、たらこパスタであればたらこを買ってきてソースを自前で作ってパスタとあえるほどに進化した。(やはり彼女はたらこパスタが好きなのだ)
レトルトのパスタにしても、レンジでチンするタイプの冷凍パスタが以前よりだいぶ美味しくなったこともあり、あえるタイプのソースを使わなくなった。

そういうわけで僕は、あえるたらこソースをここ数年食べていない。
だが、今でもなぜかあの味を思い出してしまう。

少々気を遣いつつ「あんまりおいしくないなあ」と思いながらパスタをもそもそ口に入れている僕。
その前でパスタの皿を置き、パソコンの画面に見入って学校の課題やら何やらをしている彼女。
パソコンのブラウザの一つではニコニコ動画が開かれていて、BGMとして初音ミクの曲が流れている。
僕はあらかたパスタを食べ終えて、ソースのせいで皿にへばりついたきざみ海苔を箸で一枚ずつはがしては口に運んでいた。
そのときの不思議なほどにゆっくりと時間が流れる空気感だけはやたらとリアルに思い出される。あのたらこパスタの味とともに。

思い出の味をもう一度食べたいという話はグルメ漫画などの定番だが、僕はあのたらこパスタをまた食べたいと思わない。
過去の気持ちを呼び起こすことに意義を見出せないし、それどころか、ヘタにやらない方がいいとすら感じる。

付き合い始めてしばらく経って少し関係が落ち着き、お互いのことがわかったようでわからないこともたくさん見つかり、でも興味はあるので観察し合っていて、それを気取られないように気にしないふりをしている。あのときの空気。安穏とはしているけれど、どこか空回りしているところもあって、何かしているようで何もしていない無為な時間。

あのときのパスタは別に美味しくはなかったし、あのときの時間は無味乾燥なものだった。
それは美しい思い出ではないが、しかし、妻と十年以上過ごした今となっては手に入らないものだとも思う。

もし僕が今、再びあのたらこパスタを食べたらどうなるだろうか? 僕にとって記憶とは本当に不便なもので、昔あったことは結構簡単に改ざんされてしまう。思い出のトリガーになるとわかっていて食べる料理は、その時点ですでに美化し終えている記憶を再生するための装置になってしまうのではないか。そして味による刺激は、その美化したものを固定してしまうのではないか。
よって今あのたらこパスタを食べたら、僕がおぼろげながら確かに覚えているあの空気感は、もっと美しい別物に変形してしまうかもしれない。それはあまり嬉しくないことである。

だから僕は今後も安くて簡単なあえるたらこパスタソースで作ったパスタは食べないようにしようと思っている。
何より、わざわざ食べたいほど美味しいものでもない。


〈たらこパスタのきざみ海苔と初音ミク〉


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KUMA

熊はかわいく人を狩る

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