主張とは何か
Twitterで少し議論未満の言い合いをしてしまったのだけど(それ自体は反省)、少し消化不良なのでこっそり続きを書こうと思います。
議論したいわけでもないので伏せ字を使うことをお許しください。
発端
○ィーガンの主張について「やってることはともかく主張はまともなのにな(意訳)」というツイートをフォロワーがしていたので、「主張もおかしい」というようなことを、おふざけの絡みのつもりでリプライしたところから始まった。
曰く、動物がかわいそうだから野菜だけ食べよう、が○ィーガンの「主張」であり、野菜だけ食べるという「主張」はおかしくないだろう。他人に押し付けようとする過激派のせいでおかしくなっている。とのこと。(ツイートを僕視点でまとめて意訳してます)
それに対して僕は、発信すれば主張になる、と反論した。
彼・彼女らの「生き方」
その場はお互いの前提が噛み合ってなかったため、「野菜だけを食べるのはおかしいかおかしくないか」に終始したが、僕が言いたかったのは個人の好き嫌いのが○ィーガンの主張ではないということだ。
○ィーガンというのは、いわゆる菜食主義者の中でも、純粋菜食主義者と言われ食用以外でも動物由来の全てを拒否する人々である(内側で派閥があるようだが)
実生活において、動物由来の物品を避けるというのは並大抵のことではないし、生活様式を根本から変えていかなければ不可能でもある。
つまり、方向性はどうあれある程度の覚悟がなければ実践できない「生き方」であり、単なる好き嫌いの枠に収めるのは「その生き方を決めた人々」の侮辱にもなる。と僕は考えた。
生き方と主張
生き方を決めるとはポリシー(理念)や覚悟があって実行できるものだ。内容の是非・実行強度はともかくその人らなりの信条がある。
言ってしまえば、内心の自由という人権そのものでもある。
少なくとも、個人の嗜好に収めるにはそれは大きすぎる「生き方」に見えた。だから「野菜だけ食べるのはおかしいかおかしくないか」という好き嫌いの枠に収めるように見えた質問には答えられなかった。
個々の生き方、言ってしまえば家庭内で完結しているようなら先も言ったように文句をつけるところなどないし、思うところもない。
しかし彼・彼女らは○ィーガ○ズムを提唱し、徒党を組んで「発信」しているのだ。
僕が批判したいのはその論理であり、フォロワーとのやり取りで出てきた「動物がかわいそうだから」「野菜だけ食べよう」というその「主張」である。
自分らに○ィーガンという名称をつけ、イズムを名乗る提唱を行なっているのならば、これは間違いなく「主張」と呼んで差し支えないだろう。
僕はその主張に自分の信条とのギャップを感じるから批判をしているだけである。少なくとも○ィーガンという生き方は全く否定しないし、しようがない。
(細かい論点は個々で探して議論してもらうとして、一応疑問に思う箇所を言っとくなら「動物がかわいそう」という人間視点の傲慢さと、「野菜だけ食べよう」という動物由来の肥料を使ったり害獣対策をしなければ野菜を作ることもできないという現実から目を背けた視点、それらが欺瞞に感じる。というところです)
終わりに
生きていれば誰かと信条がぶつかることもあるだろうが、それでも表現の自由・言論の自由という人権が僕らにある限り誰かの口を塞ぐことはできない。決して、塞ぐべきでもない。
主張とはポリシーであり、ポリシーとは生き方を支える柱になりうる。幸福な人生の道標にもなる。
どんなに敵対しようとも、その人の主張を矮小化してはならない。等身大の人間として接する。それが人「間」社会というものではないだろうか。
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