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【はじまりはここから②】告白と春山合宿

(カバー写真はカタクリ)

入学して早々、故郷から同じ通学列車で別の高校に進学した女の子から恋の告白を初めてされた。
小さな胸に抱えた心を告げに来てくれたのだ。
どうして良いのかわからない愚かな少年のぼく…
いまでも謝りたい。

一方ではクラスメイトのaiちゃんとの仲を勝手に冷やかしてくれたのは、やっぱりM田君だった。
顧問先生からもからかわれる始末だ。
「お似合いだべさ」
H先生は、最後に「だべさ」をつけるのが口癖のようだ。

これらを含めた調子に乗らなければ、ぼくは山岳部には入部していなかったと、淡くぼんやり振り返るのである。要は浮かれていたのである。
おだっていたのである。
まさに遅咲きの、高校生デビューであった。

書面での正式な入部意志や確認というものがあったのかどうか忘れたけれども、赤い大きなザックとキャラバンシューズ、ショートスパッツ、白いプラ製食器、コンパスなどを買わされた時が決定的だったのだと思う。
「買わされた」というくらい、まるで主体性がない。
2万円くらいの親からの投資だ。
「山は危ないから、やめなさい」
と、母に言われた。父は反対しなかった。
今では登山初心者に必須な三種の神器といえば、靴、雨具、ヘッドランプだが、当時は違ったし、にわかな山岳部員なので仕方なかろう。

古い校舎そばの、まだ緑もない校庭でテントの立て方や、ストーブの使い方などの練習が始まった。
他のスポーツ系部活はグラウンドやコート、体育館で行っているので、少しだけ恥ずかしかった。

ストーブというのは山用コンロで、製品名マナスルと言った。純国産製らしい。ポンプで圧をかけ、メタと呼ばれるもので予熱して着火する。
何台もあるマナスルは、それぞれ具合が違い、扱いには苦労した。炎上や灯油噴出はしょっちゅうだった。
ブッチことM井君がすぐにマスターしたようだ。
ブッチというあだ名の由来は今でもわからないが、どうやら悪い意味ではないらしい。
ブッチは、M田君に誘われて入部したらしい。

K先生が春山合宿に向かう地の国土地理院地図をみんなに用意してくれ、折り方、畳み方を丁寧に教えてくれた。磁北線というものがあるらしい。

5月2日、初めての合宿に向かった。
大雪山愛山渓温泉から永山岳2046m。
泊まりがけのキャンプだ。それも自炊である。
愛山渓は、国道から25キロも山道を入った、立派な針葉樹林の中のひっそりとした登山基地だった。愛山渓倶楽部や木造ヒュッテもあるのに、ぼくたちは、駐車場横のまだ2mも3mもある雪深い雪面でのテント泊である。
炊事は主に女子の先輩たちがしてくれた。
豚汁が美味しかった。

夜、星が手に届くように大きかった。
こんなにたくさんの星空を見たのは初めてだ。
野外に東屋のようにある露天風呂にM田君、O君たち他と夜分遅くに入った。
裸電球の下、木製の四角い湯船の中で、
O君が「神田川」の歌を教えてくれた。
若かった〜あのころ〜…
いや、十分、今も幼く若いではないか。
大人になって行くというリアル感がなかった。
ぼくも音痴ながら歌い、やがて合唱になった。
裸の付き合いは、絆を深めてくれたように思う。
薄っぺらいテントマットと宿泊研修用のキャンプ寝袋だけでの夜は寒かった。

翌日、初めての威容なる大雪山、そして雪山登山のことは、残念ながら、あまり覚えていない。
それほどキツかったのだ。
つまり、バテたのだ。
とにかく晴れではあった。
イズミの沢沿いに進み、村雨の滝がまだ雪に埋もれている雪渓をたどった。
ダケカンバやハイマツというものを初めて見た。
登頂の喜びも達成感さえも覚えていない。
下りの延々とした一大残雪でビニル袋や米袋で大滑降(グリゼードならぬ尻セード)したのは気分が良かったことを一番に覚えている。
真っ白な山肌と、近い太陽と紺碧の空。
特にぼくは、顔が真っ赤に雪焼けした。
ニヤニヤする先輩たちに、缶あずきやコンデンスミルクをかけた雪を、吐くほど食べさせられた。
下山後、靴の中や尻はベチャベチャだった。
これが初めての春山合宿の思い出である。
なんだか軍隊のような気がした。
もし、吹雪だったなら、雪中行軍だっただろう。

帽子や手袋もなく、持参した雨具は、漁組購買店で買った薄いカッパだけだったのだから。

愛山渓倶楽部の小さな内風呂で、汗を流した。
狭い風呂なので、交代で入った。
待っている間の休憩室には暖炉があり、山の本たちも少しあった。少しだけめくってみた。


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