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気付いたら、50歳を過ぎて大工!?になってた話  ~少し長めの自己紹介とコミュニティ大工という生き方~

頴娃(えい)おこそ会の加藤 潤です。

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最近、大工のような仕事をしています。
一人前の大工というにはまだ腕は未熟だし、そもそもプロとしての経験は浅く言うもはばかれるので、大八(大工の一歩手前)とか、勝手にコミュニティ大工と称してます。
とは言え大工や建築家には出来ないこともしていたりするのですが、この説明がなかなかスッキリ出来なくて…。
誕生日を迎えるにあたり、今の仕事に関する自己紹介記事を書いておこうと思った次第です。

DIY・日曜大工三昧なサラリーマン時代

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私と大工仕事の関わりは、20数年前に遡ります。
2000年代前半、埼玉在住のサラリーマンだった私の趣味はDIY・日曜大工。
庭の広い賃貸住宅を借りたことで、見様見真似でウッドデッキをつくってみたのがことの始まり。32歳の時でした。
まあまあ大手の外資系石油会社から、心機一転、カリブ海諸国向けに車や部品などを輸出するなんでもありのベンチャー的な商社に転職し、新規商材の開拓やカリブ海出張などもこなしながらの慌ただしい生活。仕事のストレスは週末の大工仕事で発散って感じだったのですが、賃貸住宅暮らしでは思うようにDIYも出来ないと、郊外に築23年の庭付き中古住宅を買ってしまってからは、さらに拍車が掛かりました。

趣味が興じて木材商社へ転職

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週末ごとにホームセンターに通っては、木材を物色してDIY…という日々。
そんなある日、木材商社の求人広告に目が留まります。
「そうか、大好きな木材に関わる仕事に就く。その手があったか!同じ商社ということで、潰しも効きそうだし…」
という安易な考えから応募した住友林業は、木材商社であり、ハウスメーカーでもあり、当時は日本一の山林地主としての顔も持つ会社。
36歳での挑戦でしたが、海外営業の実務経験を評価頂いたようで、晴れて採用となりました。

住友林業では、北欧、バルト、ロシア、中国などへ出張して木材を買い付け、これを国内の木材加工工場などに販売する仕事に従事。
木材流通の世界で商社マンとして百戦錬磨のプロ相手に切った張ったの商談に臨んだし、山林や製材工場、木材市場や住宅建築現場に足を運ぶこともありました。

厳しさの中にも楽しくやりがいのある仕事で、大好きな木材に接することが出来る、サラリーマンとしてはかなり幸せな日々でした。
その後弟が立ち上げたタツノオトシゴ養殖事業に関わるために脱サラを決意、2010年に鹿児島頴娃町に移住することになります。41歳の時でした。

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観光の仕事に就き、少しDIYはお休み

薩摩半島先端の頴娃町では、弟と力を合わせてタツノオトシゴ観光養殖場を立ち上げることに。お金もなかったので、床板を貼ったり棚や壁を作ったりと、開業当初の施設の改修はほぼDIYで手掛けました。
素人仕事の域は出ませんが、まあ自分の施設だし、これも手づくりDIYの温かみだよなあなんて思いつつ精を出しました。

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それから今住んでいる頴娃町の住まいも、痛みが目立った古い空き家を自分で直すからと家主と交渉して、なんとか借りた家でした。田舎での暮らしと仕事に、DIYの趣味がこんなにも役立つとは。予想外の展開でありがたいことでした。

手づくり感満点でスタートしたタツノオトシゴ観光養殖場の一通りの改修が落ち着くと、私の役回りは観光施設の運営面や頴娃町の観光まちづくりというソフト的な仕事に移り、DIYからは少し遠ざかる日々を過ごすことになります。

NPOでの空き家再生の始まりとDIY・大工仕事の復活

そんなことをしているうちに、2015年頃から石垣商店街で頴娃おこそ会を通じた空き家再生がスタートしました。
建築学科のある大学の先生とコラボしつつの改修作業が進み始めましたが、昔取ったきねづかってやつが役立つことが嬉しく、どんどんはまっていきました。

2015年夏 第一工大との合宿

頴娃おこそ会での空き家再生も3、4軒目と進んでくるうちに、建築の先生の力を借りるばかりでなく、私たち自身がDIYを手掛けたり工務店と折衝したりして、オフィスをつくったり、宿をつくったりも。
その頃の空き家再生では、自らの物件だしDIYも良しとひたすら走ってきましたが、やっぱり素人感覚のDIYの限界も感じることがありました。

一つの転機 プロ職人との1ヵ月の合宿改修からの学び

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そんな中で一つの転機が訪れます。
福岡のみやま市で花火製造販売を手掛ける筒井ご夫妻から、八女市の山奥の物件を宿に改修したいという相談を頂いたことでした。
素人DIYerの私に声を掛けてくれた筒井今日子さんの懐の深さにはただただ敬服ですが、お蔭さまでプロの職人さんとチームを組んで、2019年秋に約1ヵ月ほどの住み込み合宿形式で、現場を預かる機会に恵まれました。
プロの仕事の進め方との違いを痛感。私のつたない作業をみて、「これはDIYでも不合格!」と先輩職人から厳しい指摘も多々受けました。鍛えられたなあ…。(泣)

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災い転じて…。コロナ禍によって大工になる

そしてもう一つの転機は新型コロナの発生でした。
51歳だった2020年春。
頴娃でのまちづくり活動の進展の成果で、私も講演や視察、研修会の開催などで生計が立つまでになっていたのですが、これをコロナ禍が襲います。週に数件はコンスタントに入っていたまちづくり的な仕事は一気にほぼ壊滅状態に。頑張って築いてきたつもりでしたが、砂上の楼閣ってやつですねえ。(泣)

そんな状況の中、NPO頴娃おこそ会の子会社、(株)オコソコが運営するふたつや、ゲストハウスの個室ベッドづくりを担うことになりました。あまりに暇でしたので、結構気合いを入れてつくりましたよ。(笑)

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これをFacebookで投稿しているうちに、
「えっ、じゅんさん、そんなことが出来るんですね」とか
「時間あるなら、うちの改修にも関わってもらえませんか?」
なんて声が掛かるようになり、なんとなんと、失った仕事の穴埋めが出来るようになってきたのです。
へえ!なんと!自分でもビックリ!

予算ややりたいことがビシッと決まって工務店や建築士に相談する前の段階とか、自分もDIYで改修に加わりたいとか、そういう人が相談出来る先って、実はあまりないのかも…。
そんな既存建築業界が拾えていない潜在的なニーズって結構あるものなのです。

腕は大八だけど、ソフト力でカバー

思えばその頃、頴娃おこそ会での空き家再生実績は8~9軒に及んでいたこともあって、空き家再生に興味ある方からその進め方について相談を受けることもままありました。
空き家再生では、その物件に手を出しても良いかどうかの目利きから、家主との折衝の仕方や借り方、地域や行政との関わり方など、改修というハードに入る前のいわばソフト的な部分がとても重要です。
ところがとても大事なそういう部分をサポートする人ってあまりいないし、そもそも仕事にならないし、私も相談には乗ってもなかなかお金を頂き辛くて…。
でも、その後アドバイスが奏功して改修作業が始まると、建築に掛かる費用には当たり前だけどちゃんとそれなりのお金が動くという様を眺めていました。

であれば、私が改修作業を職人として担うことで、前半のソフト部分のアドバイスはサービスとして提供が出来るし、施主がDIYで参加してくれるなら、図面を書いたり緻密な見積りが苦手な私でも、その場で相談して進めれば良い訳で、むしろ中間コストを抑えつつ、作業を担うことが出来る。
まあ頼む方も、私にピシッとしたすき間ない仕上げや、格好いいデザインを求めている訳ではないので、腕は大八ということは大目にみてもらう。
むしろ大切なのはソフトも含めた空き家再生の幅広い経験と、コミュニケーション力…。そんな感じしょうか。

コミュニティ大工という生き方

こうしてひょんなことから始まった不思議な大工仕事はなりわいとして成り立ち、空き家再生スタート時のソフト部分と、その後の建築仕事をシームレスに繋ぐことで、あまり費用を掛けることなく空き家再生のお手伝いが出来るようになったという訳です。講演や研修の仕事も少しは戻りつつありますが、今では全体の6~7割くらいは大工仕事となっています。

私もまさか、50歳を過ぎて大工になるとは思わなかった。いや、大八ですね。(笑)
最近は、空き家再生のもろもろも一緒に引き受けるコミュニティ大工って勝手に命名してますが、それなりにしっくり来ている気もしています。

最後に言いたいことは、20年掛けて、「好き」が仕事になってしまった私は幸せものだなあと思うことです。しかも大工仕事のみならず、人との折衝や契約、地域団体の運営、地域と行政との連携など、これまでの経験を活かすことが出来るとてもありがたい環境に身を置いています。転職を繰り返して、天職に巡り逢えた気分です。

人口減少社会の今は、縮小と連携の時代。
少し前までの拡大・成長・専門性追求・分業・効率化という発想だけでは乗り越えられない時代なのだと思いますし、その中で過疎が進む地方の田舎は、むしろこれからの日本全体に求められる処方箋を実践に移すことが出来る貴重な先進地なのかもしれない…なんて考えるところです。

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