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短編小説『お父さんの涙』

補助輪なしで自転車に乗れた日、

今でも鮮明に覚えている。

 補助輪を外して乗れるように練習した。

 最初は、お父さんがしっかりと荷台を持って、支えてくれるので、かえって安定感があった。

どんなに傾いたとしても、お父さんは、力ずくで戻してくれた。

「美月、持ってないよ、何も持ってないよ、手を放しているよ」

私は、乗れたと思った。

やっと支えなしで乗れたと思った。

お父さんから、離れてゆくと思ったら、後ろを振り返ると、すぐそこにお父さんがいた。

腕まくりして、がっちりと荷台を掴んで、真っ赤な顔で額に汗をにじましているお父さんがいた。

「美月、持ってないよ、何も持ってないよ、手を放しているよ」

後ろを振り返ると、いつもお父さんがいた。

それが、何回も続いた。

結局は、お父さんがいて、支えてくれる。

お父さんは、手を離さない。

だから安心。

 何回目だろう。

自転車が急に軽くなった。

順風に迎えられて港を出るヨットの様に、すっと前に進んだ。

爽快感が私の体を駆け巡った。

嬉しくなって、ペダルを回し続けた。

暫くして、お父さんの「ああ」という叫び声が聞こえた。

それも、すぐ後ろではなく、随分後ろで聞こえた。

軽やかに進む自転車に反して、私は急に不安になった。

後ろを振り返った。

支えてくれているはずのお父さんがいない。

遠くで地面に腹ばいになっているお父さんが見えた。

「お父さん、助けて」

私は呆然とした。

今までの軽やかな自転車とは打って変わって、ハンドルが右に左に踊りだした。

地面も右や左に曲がりだした。

空中遊泳をしているように体が、軽くなった瞬間。

青い空が見えて、今まで持っていたハンドルのグリップが、目の前を横切った。

後頭部をバットで殴られたような衝撃を受けた。

最後に、鼻の奥がツンとして気を失った。

 

気が付くと病院だった。

幸いにして頭は、ヘルメットをかぶっていたので、何でもなかった。

ただ、右側の太ももが、自転車のどこかに引っ掛けたらしく、大きな傷が出来て、ひどく出血していた。

お父さんは、涙ながらに「ごめんな、ごめんな」としきりに謝っている。

その時、初めてお父さんの涙を見た。

右の太ももの外側を何針か縫った。

お父さんは、「傷は残りませんよね」と、繰り返し病院の人に尋ねていた。

結局、傷の痕は残ってしまった。

それからずっと、その傷痕を見られるのが、いやで、膝から上の見えるスカートや短いパンツを履いたことがない。

でも、今では気にしていない。

 傷あとを見るたびに、私は自転車に補助輪なしで乗れた日のことを思い出す。

 そして、もうこの世にいないお父さんのことを思い出す。

初めて見たお父さんの涙を思い出す。

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