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短編小説『流氷の鳴き声』

彼女がさっき言った「自由」、どういうことなのだろう。

確かに、彼女は札幌に出てきて「自由」になったと言った。

頭の中で、「自由」という言葉が駆け巡る。

コタツに足を深く入れて、仰向けになった。

彼女の足に当たった。

素足だった。

接触に抵抗する気配もなかったので、素足に自分の足を絡めた。

「自由」どういう意味なんだ。

天井を見上げた。

目の前には、円形の洗濯ハンガーに架けられた下着が、石油ストーブから発せられる気流によってゆっくりと回転していた。

ピンク、イエロー、レッド、スカイブルーの彩りが、ベビーベッドに取り付けられた赤ちゃんの玩具のようゆっくりと回っている。

綺麗だった。

猥雑なものが、美さによって浄化されるような気がした。

目の前に「自由」と言う言葉が回り出した。

「そう、今年は流氷早かったんだ。ところで、ばあちゃんは、元気?」

彼女は、北海道の網走の近くにある実家に電話をかけている。

先程話をしていた口調と違って、低くくぐもった声になっている。

二十歳過ぎの一人暮らしの女性の部屋で二人きり。

コタツの中では、彼女の素足の感触を楽しんでいる。

目の前では、色取り取りの下着が挑発している。

彼女は、確かに「自由」と言う言葉を使った。

私の心の奥底に、ストーブの炎が飛び火した。

仰向けに寝転んだまま、ゆっくりとコートを脱いだ。

私は、動けなくなった子ウサギを前にして、ゆっくりと回りながら、舌なめずりする狼になった。

「なしてダメなの。それ位じゃ、札幌の病院行けばすぐに治るしょ。・・・行かんて言っても、無理くり連れて行けばいいっしょ。・・・なして?なして?春になれば帰るべさ。流氷がいんなったら、かえるべさ。なして、それまで待てんの?・・・」

一旦、コタツから出て、うつ伏せで電話をかけている彼女の背中の方に滑り込んだ。

ストーブの温もりが、顔を撫ぜた。

顔が火照るのを感じる。

酒の酔いとストーブの温もりが、理性を遠ざける。

背中から抱きかかえようとゆっくりと手を回した。

瞬間、彼女はビクッと反応した。

驚いたようだ。

彼女は、振り返った。

目には一杯の涙が溜まっていた。

涙が、あどけない北国の少女の面影を残した紅色の頬に流れ落ちていた。

店で見た時の、彼女の面影はない。

実家のおばあさんの具合を気遣ういたいけな少女の顔だった。

ビシッ。

目の前を何かが通り過ぎた。

彼女に平手で頬を叩かれたのだった。

「終わった」

自分は、小さな盗みを咎められたコソ泥のような後ろめたさを感じた。

火照った体が、冷水を浴びせかけられたように冷たくなった。

彼女の「自由」を私は、取り違えていたのだ。

彼女の自由は、流氷に閉ざされた空間から逃れることだったのだ。

一晩中悲しい叫び声をあげる流氷の閉塞感から、逃避することだったのだ。

一瞬にして、酔いが醒めた。

自分自身が、小さく薄っぺらい存在のように思えて嫌になった。

立ち上がってコートを着た。

目の前には、さっきまで頭上で回っていた色鮮やかな下着が、安物のキャバレーのネオンサインのように色あせて、だらしなく釣り下がっていた。

そそくさと靴を履いて、外に出た。

ドアを開けると、雪女が吐き出した息のように、粉雪交じりの風が吹き込まれた。

「なして待てんのん?なして?なして?流氷がいんなったら、帰るべさ。なして?なして?」

後ろで、彼女の悲しい声がひびく。

外は真っ暗闇で、真冬のオフォーツク海に飛び込むような感じだ。

彼女の電話を掛けている声と、ドアの隙間から入ってくる雪女の吐息のようなすきま風と混ざり合って、呪いの言葉のように聞こえる。

呪いの言葉が私の背中を押し出した。 

全身に突き刺さる寒さで、自分の罪の重さを知る。

私はいっそのこと、この凍える暗闇の中に吸い込まれてしまいたかった。


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