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あっさりとした日々、反復可能だと振舞う日々。

僕は若いが、自分がやけに歳を取ったと感じる理由として、「いろいろなことがあっさりとしてきている」というのがある。それは何も自分だけではないだろう。色々な人が時間が過ぎるのが早くなったとそれらしきことを言う。
あっさりとは曖昧だが、自分の行為や目の前に起こる出来事の重要度が下がり、緊張感を持って挑まなくなった。決して僕はそのことに対して悲観しているわけではない。寧ろ一々切迫感がなくて楽だくらいに思っている。

しかしこの場合、過去の出来事がこれからの人生よりも重要に映るとも言えるが、そんなことがあるのだろうか。自分が学生の頃に重要だと思っていたこと(宿題の締め切りとか)は実際は対したことがない。
むしろ、予算が何百万と降りてきた案件でやらかしたりする方が恐ろしく、失敗も出来ない。単純な比較は出来ないが、結婚や出世、友人関係、家族、生と死…これからの方が「重要」なことばかりだろう。そもそも生きていく年数はこれからの方が多いのだから必然的にそうなる。(死ぬタイミングで話は変わるが…)

だが実際のイベント(重要なこと)の数ではなく、「取り返しのつかなさを感じる瞬間の数」で物事を考えれば、10代の方が多いかもしれない。反復の可能性だ、特に10代は学校生活があり、それは卒業までの期限付きのものである。生活の中で常に終わりがあることを意識させられ、「最後の文化祭」「卒業式」「夏休みの祭り」「部活動の大会」のようなイベントでそれを強調し、或いはそれらの時期を「青春」という言葉で儚い一瞬のものだとラベリングされる。そしてランドセルや制服、給食などのアイテムを用いて、一定期間だけ利用する、ここを逃すともうないというシチュエーションが作り出される。
また、幼少期でも考えられる。例えば、欲しいものがあったとしても自分の判断で購入出来ない。親はどのタイミングで買ってくれるのか、どれほどの時間を費やせば購入に至るまでのお金が用意出来るのかも未知数で、誕生日プレゼントすらも、そのチョイスを間違えれば、別の欲しいものはもう手に入らないかもしれないという気持ちを抱えることになる。(これらはあくまで僕の家庭環境の話であるが)

だが今はどうか、マクドナルドで何を食べるか迷っても次また来て別のメニューを食べればいいし、土日を無駄に過ごしても来週の土日を有意義にすればいい。また友人と別れたとしても、また別の友人を探し、職場を離れてもまた別の職場に就職すればいい。あるイベントを行き逃しても、別のイベントでその気持ちを補完できるという風にも考える。
そう考えると大人になるというのは、反復可能なことを増やしていくということかもしれない。そうやって"もう次がない"という切迫感をなるべく無くして、習慣にして、行動するたびにいちいち色んなことを考えすぎないようにする。
過去と比べて毎日があっさりと進んでいくと感じる正体として、実にこういうところがあるように思える。

しかし、我々が日々を反復可能にしていると思っているそれが、果たして本当に反復可能であるのかと言われると怪しいもので、それは欺瞞なのかもしれない。
実際のところは、普通に昨日の休みと今日の休みは違うし、昨日のご飯と今日のご飯も違う。職場だって変われば様々なことが違うのは当たり前だ。だが「青春」のようにそれが唯一のものであるかのようにラベリングする言語がないために、日々取り返しがつくことばかりだと思ってしまう。今日が無理ならまた明日、今回が無理ならば次会うとき、ここがダメならば別の場所で…。
しかし、毎日歳をとって死に向かう限り、全ては反復不可能なことなのだと思う。何も起こってなかったとしても、それはこれから先同じことが再び起こることはないのだ。
(そうはいっても、毎日の習慣が実は全て唯一のものであるとか言っていると頭がおかしくなってくる。)もしかすると、人生一度きり、楽しんでこ!的な結論に向かうかもしれない。人生一度きりはこれまた事実であるから。

そういう取り返しのつかない毎日の中で、それを忘却することで、切迫感から解放されて生きている。そしてそれをあたかも反復可能であるかのように振舞う。ふと、それを思い出し、なんか今あっさりしてるなと感じる。
その構造に気づき、それが真実であったとしても、僕は生き方を変えることはしないだろう。しかし、取り返しのつかないことを忘却しているということに関しては、もう少し慎重に考えてみてもいいのではないかと思った。気づいたときにはもう終わっているということもある。

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