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Reflections on The Uses of Argument『論述の技法』省察録(1)


1:始めに


 
The Uses of Argumentはイギリスの哲学者スティーブン・トゥールミン(Stephen E. Toulmin)が1958年に出版した本で、英語圏における論文の書き方を根本から変えてしまった。

文章論の本であり名文で書かれているのだが、イギリス経験哲学が抱えていた大きな問題への問いかけと解答ともなっている。彼は後期ヴィトゲンシュタインの教えを受けている哲学者でもあるため、本書は現在の哲学が抱えている多くの問題に直接の解答を試みた本としても価値がある。それほど重要な本であるが、1958年に出版した時にはこの本はあまり読まれなかった。ところが、しばらくたって文章術の本としての評判が立ち、1980年代には学術論文の執筆法として不可欠な書物になっている。現代の学問的思考を行うには彼の提唱したargumentの技法が不可欠だと言っても良い。本エッセイは彼のThe Uses of Argumentを1頁ずつ読みながら深く省察して解題する。Reflections(省察録)と名付けた所以である。

日本でも本書は翻訳されており、またargumentを利用した文章術の本も日本語で無いわけでは無い。しかしながら、トゥールミンがなぜこの本を書いたのかについてしっかりと哲学的にかつ修辞学的に考え抜かれている本は日本語でもそして英語でも著者が知る限り出版されていない。それは我々がいまだ彼の提案したargumentによる思考の哲学的な意味を深く掘り下げることが出来ていないためである。

彼は本書を通じて、認識論の問題に切り込んでいる。認識論は英語では「知識の理論(theory of knowledge)」とも言われ、特に方法、有効性、範囲、および正当化された信念と意見の区別に関して考える哲学の事である。1950年代に哲学者として仕事をしている人たちが共通してもっていた認識論的な問題(欠陥)に切り込んだのが本書だ。哲学者としてのトゥールミンは日本語でもいくつか翻訳があり、評価を受けている。それは英語圏の哲学でも同じだ。 以下翻訳されている書籍を紹介しておく。





一方、文章術の専門家、あるいは修辞学の専門家としての評価も高い。高いどころか小学生から研究者まで彼のargument論に基づく文章術の影響を受けていると言って良い。ところが彼の論文術はそれ自体がイギリス経験哲学に対する大きな挑戦だと議論されることはあまりない。本連載ではこの問題、つまりイギリス経験論哲学への批判的申し立ての側面から、論文術・作文術としていまも大きな影響力を持つThe Use of Argumentを徹底して省察する。これからの学問はここを出発点としていくべきだと考えるからだ。

筆者がこの本を知ったのは20年ほど前だ。この本を参考に多くの博士課程の学生の論文指導を行った。現在の学問の根本にある認識論的な見方が根本的に変わるほどの衝撃をトゥールミンのargument文章術は持つのだが、なぜargument形式で論文を書かないといけないのかが学生の論文の文章を添削しているだけではなかなか伝わらないのだ。もっと深く哲学的な問題を掘り下げる必要がある。

英語で書かれた多くのargument法による作文術を読んでも認識論の問題には言及していない。argument作文法は修辞学であると共に現代哲学へ大胆な挑戦をしている思考法である。このことを納得するには、トゥールミンのargumentに関する思考を哲学として説明することが必要だと考えて、Reflections on The Uses of Argument と題した本エッセイをしばらく書いていきたいと思う。彼のThe Uses of Argumentを1頁ずつ読み、省察 reflectionsを加えていく。argumentを簡単な修辞的方法として語るのだけでは無く、認識論として、それも新しい認識論として説明しきってしまいたいと思っている。

テキストとしては Stephen E. Toulmin The Uses of Argument Updated Edition 2003 Cambridge University Press を使った。この本のテキストの言及しながら進めていくので、入手して手元において参照しながら本書の進みに合わせて1頁ずつ読んでいくと、読者はより深く理解が深まると思う。あと、哲学的な議論についてはStanford Encyclopedia of Philosophyを頻繁に参照している。哲学が認知科学や人工知能の議論に広がっている現在、このサイトの網羅する領域と脱領域的な議論を恐れない思考、さらに元気な哲学者達が多くでコラボレーションしている活動はすばらしく、10年以上もこのサイトを頻繁に利用している。https://plato.stanford.edu/
 
さて、ここまで英語でargumentとしてきたが、ここで、argumentに対して新しい訳語を設定したい。現在argumentは論議とか議論と訳されるが、これから論述と訳していく。 またargumentation の訳も決めておく。 Websterによるとargumentation はthe act or process of forming reasons and of drawing conclusions and applying them to a case in discussion とされている。理由と結論を形成し、それを議論中の事例に適用する行為またはプロセスということだ。そこで、この言葉には、論述行為という訳語を使っていきたいと思う。
 
インターネット上で公開されているStanford Encyclopedia of Philosophyは2021年の6月16日にargument and argumentationという新しいエントリーを加えている。
https://plato.stanford.edu/entries/argument/
 
以下冒頭のところを引用しておく。
 
Argument and Argumentation
First published Fri Jul 16, 2021
 
Argument is a central concept for philosophy. Philosophers rely heavily on arguments to justify claims, and these practices have been motivating reflections on what arguments and argumentation are for millennia. Moreover, argumentative practices are also pervasive elsewhere; they permeate scientific inquiry, legal procedures, education, and political institutions. The study of argumentation is an inter-disciplinary field of inquiry, involving philosophers, language theorists, legal scholars, cognitive scientists, computer scientists, and political scientists, among many others. This entry provides an overview of the literature on argumentation drawing primarily on philosophical sources, but also engaging extensively with relevant sources from other disciplines.
 
(抄訳)

論述(argument)と論述行為(argumentation)について


論述は哲学の中心的な概念である。哲学者は主張(claim)を正当化するために論述を多用し、その実践は数千年にわたり論述や論述行為とは何かについての考察を動機づけてきた。さらに、論述的実践は、科学的探究、法的手続き、教育、政治制度など、他の場所にも広く浸透している。論述行為の研究は、哲学者、言語理論家、法学者、認知科学者、コンピュータ科学者、政治学者など、多くの人が関わる学際的な分野である。
 (引用終了)

つまり、クレームを正当化する活動が論述であり、その方法は多くの分野で使われていて、それ故に、現在では「どのように論述が行われるか」つまり論述行為(argumentation)の研究が学際的におこなわれている、という意味だ。この流れだと、argumentはクレームを正当化する記述である。これを論述と訳し、argumentationを論述行為と訳した方が混乱が無くなる。
 
論議という言葉は読者を説得することで、著者の主張を正当化するというよりは動詞のargueつまり相手に喧嘩をふっかけて論破するという感じになり、一方論証という言葉はあっという間に終わる数学的な証明の感じがする。argumentはかなりの長さでクレームの正統性を述べる文章である。そこで論述という訳語を当てる。ちなみに博士論文は英語でDissertationである。論述の英訳で一般的なものはdissertationであり、もとになった動詞dissertはto speak or write at lengthつまりこまごまと詳しくある程度の分量文章を書いて述べるさまを意味する。長々と自分の主張の正しさを論述した結果生まれる文章が博士論文なのだ。
(この回 終了)

まとめ
argument 論述
argumentation 論述行為

付録: 連載の意図

連載を始めるに当たって、執筆の意図を書いておく。僕はヘーゲル哲学とか肌が合わなくて読まないし今後も読むことはないと思うが、ヘーゲルのたとえば精神現象学を徹底して注釈をして講義をするコジェーブの気持ちがわかる気がする。

ギルバート•ライル、クリフォード・ギアツ、スティーブン・トゥールミンと流れる思考の技法について、大学院の学生をあいてに大分おしえてきたが、退職して過去を振り返って、どうもうまく教えられていなかったなあと反省する。その延長線上でラツゥールやグレーバーといったすばらしい研究者・思想家がいる。彼らの本は翻訳も多いしそれなりの解説本も出ているが多くが読んでいてちょっと違和感を持つものが多い。筆者はフランス哲学とかドイツ哲学は知らないがイギリス経験論から後期ウィトゲンシュタインそして帰納論理へと流れる世界は40年近く慣れ親しんできた。最近日本の研究者の業績も研究も溜まってきてようやく我々の日常で議論することができるところまできた。英語での発表もある。だが、こうした研究活動がこれからの行動や思索となるまで後に続く研究者や実践家に染み渡らない。それは思想を優しくわからせようとするからだ。出版の現状を見るとそんな本が多い。またそれが市場で売れたりする。しかし、優しく書き直してもダメなのだ。じゃあ原典を読むか。そうは言っても、ある程度力がないと読めない。無理に読んでもつまみ食いだ。実はこうした研究書の自分読みはダメなのだ。

この問題を解決する方法がある。これが原典講読という授業だ。先生のもとで一文一文読んでいく。ゼミに入ると先輩がサブゼミで教えたりもする。大学に行かないで先生の家でやることもあれば先輩の下宿でやることもある。筆者も博士会と称して2〜3年前まで行っていた。この方法は非常に生産性が悪い。だが効き目がある。

本格的な思想はやさしくならない。が一度学べるとスラスラと読み使えるようになる。だがその技を取得してないと難しい。わからないとできないが、できないとわからない。 ここをいかに超えるか。わかってる人に習う原典購読しかない。いやちょっとわかった者がまったく解らない者を教えても良い。慶應義塾大学では半学半教という。教える者と学ぶ者との師弟の分を定めない。だが原典を使うのだ。それをつかって読書会つまり原典購読を行う。

というわけでnoteで原典講読の連載始める。終わるまで二、三年かかるかもしれないがやってみる。英語の読み方を教えたり、 イギリス経験論の原典 を紹介したり、最近の研究事情を紹介しながらやります。ダラダラ長く読み切るまで。脱線もしながら続けていきたい。

 

 

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