伊豆国の鈴木氏(1)ー初代鈴木繁伴

鈴木繁伴(重伴とも。しげとも)は伊豆国の江梨(えなし)鈴木氏の初代です。江梨の鈴木氏は、藤白鈴木氏の「重」も名前に使いますが、ほとんどは「繁」を名乗っています。
繁伴は生没年不詳ですが、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将で、藤白鈴木氏の当主重実(しげざね)の長男として藤白で生まれました。元弘元年(1331)に後醍醐天皇が倒幕の旗を挙げたとき、執権北条高時の命によって熊野に来た護良(もりよし、もりなが)親王と戦いますが、鎌倉幕府が倒れたことで立場が悪くなり、建武3.年(1335)に家臣ら30余名を率いて海路、伊豆国に下向して田方(たがた)郡江梨村(現在の静岡県沼津市西浦江梨)に潜伏します。その後建武の新政が崩壊すると藤白に戻ります。観応2年(1351)に足利尊氏と直義が争った薩埵峠の戦いで直義側について敗れ、再び江梨村に逃れて投降。江梨に定住して江梨鈴木氏の初代になります。江梨では大瀬(おせ)神社で祭祀にいそしんだとされています。繁伴の郎党には山伏もいました。熊野信仰の中心人物である鈴木氏らしい話です。その後鎌倉公方(くぼう)の足利基氏(もとうじ、1340~1367、尊氏の四男)に帰属し、初代関東管領(かんれい)の上杉憲顕(のりあき、1306~1368、山内上杉家の始祖、上野•越後•伊豆の守護を兼ねており、尊氏の母清子は父方の叔母にあたり、尊氏とは従兄弟の関係にあります)に江梨村の領有権を認められています。さらに貞治(じょうじ、ていじ)6年(1367)には足利氏満(うじみつ、1359~1398、第2代鎌倉公方、基氏の子)に招かれて伊豆国と相模国の船大将を命じられ、東国における室町幕府水軍の総大将を務めました。これも熊野水軍を率いた経験のおかげです。まさに「芸は身を助ける」といったところでしょうね。
鎌倉公方は、室町時代に京都に住む将軍が関東10か国(相模•武蔵•安房•上総•下総•常陸•上野•下野•伊豆•甲斐)を統治するために設置した鎌倉府の長官で、足利基氏の子孫が世襲。関東管領はその補佐役ですが、任命権は鎌倉公方ではなく室町幕府将軍でした。上杉氏が世襲。
護良親王(1308~1335)は後醍醐天皇の第三皇子(第一皇子という説もあります)で、出家して天台座主になりますが、お経よりももっぱら武芸に励んだ異色の座主と言われています。後に還俗して征夷大将軍になります。護良親王は熊野に向かったとされていますが、親王一行は山伏姿で熊野に向かいますが、熊野三山の別当定遍僧都が鎌倉幕府寄りであることから、熊野から方向を変えて十津川に来ています。従って繁伴は大規模な戦をしたというよりも幕府側としての示威行動を親王側に対して行ったということでしょう。
薩埵(さった)峠の戦いですが、観応の擾乱(かんおうのじょうらん)と呼ばれる足利政権の内紛によって行われた戦乱の一つ。観応2年(1352)12月、静岡県の由比(ゆい、静岡市清水区)•内房(うつぶさ、同県富士宮市)一帯において足利尊氏と弟の直義の軍勢が戦ったもので、結果は尊氏側が勝利し、翌年直義は降伏して鎌倉の浄妙寺境内の延福寺に幽閉されて急死します。『太平記』では尊氏による毒殺となっています。薩埵峠から峰続きの桜野が主戦場となったことから「桜野の戦い」とも呼ばれます。
鈴木繁伴がどうして江梨を選んだのかについてはよくわかりません。熊野から海路で来ていますから、船溜まりとして適した場所としての情報を持っていたのかもしれません。この江梨は明治になるまでは陸路でのアクセスができなかったそうですから防衛上の意図があったかもしれないです。大瀬神社という古社もあります。さらに伊豆半島の東側の湯河原には鈴木氏と先祖を同じくする穂積氏の子之神社もあります。熊野と伊豆半島、房総半島は海路を通じての交流があります。


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