もう一つの聖地産田神社(3)ー神社を訪ねる

産田神社は三重県熊野市有馬町1814番地にあり、花の窟から西に歩いて20分くらい。鳥居をくぐり、参道を進むと参籠殿があり、その先に本殿があります。参籠殿は花窟神社にもあります。本殿は伊勢神宮と同じ神明造りで昭和4年(1929)の再建。産田神社には拝殿がありません。ダイレクトに本殿にお参りしますが、ちょっと待ってください。拝殿はないのですが、本殿の前には白い石が敷き詰められています。ここを土足でヅカヅカと行ってはいけません。土足厳禁。参籠殿に下駄箱とスリッパがありますから、それに履き替えて参拝します。ここの落ち葉は箒で掃かずに必ず手で拾うそうです。そして本殿の両サイドにある「ひもろぎ」にも祈りを捧げてください。この白石は七里御浜から集められたもので、神社の祭神が神々の母であるイザナミですから、安産•子育ての神として信仰され、土地の人が妊娠すると、目をつむってこの石を拾います。丸い石だと女の子、細長い石だと男の子が授かると言われています。無事に生まれたら七里御浜に行って石を拾い、最初に神社で拾った石と一緒に納めてお礼参りをするそうです。他に境内社として稲荷神社があります。
産田神社の創立は崇神天皇の時代だと伝えられていますが、前章で書いたように兵火で焼けて古記録を失ったため詳しいことは分かりません。また『熊野年代記』(新宮の本願所であった新宮庵主霊光庵により編纂された編年体の歴史書。古代から明治前半までの熊野三山の歴史を伝え熊野の歴史研究において重要な資料)には、長承元年(1132)崇徳天皇が産田神社に行幸したと書かれています。長承は崇徳天皇の在位中の年号であり、天皇自身が遥々熊野まで来たのか疑問です。おそらく勅使を遣わしたのではないでしょうか。
明治4年(1871)に郷社(ごうしゃ)に指定。かなり早い時期の指定です。郷社は村社より上、県社より下という位置づけです。明治39年(1906)には神饌幣帛料供進社(しんせんへいはくりょうきょうしんしゃ)に指定されています。これは祭礼や儀式の際に地方公共団体から奉幣があるということです。明治40年(1907)に村内の小社5社を合祀。
現在の祭神は、イザナミ、カグツチ、イザナギ、天照皇大神、大山祇命(オオヤマツミ、山の神、コノハナサクヤの父)、木華開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)、神武天皇です。天照大神以下は合祀した神社の祭神ですね。
昭和34年(1959)の伊勢湾台風で境内の古杉が根こそぎ倒れ、そこから弥生中期の土器片が出土しました。
近接して安楽寺があり、この寺が兵火で焼けた時に延焼して神社も焼けました。『続風土記』によると、山号は長生山、曹洞宗の寺院で、熊野5ヶ寺の一つで近郷の大寺。有馬氏が文安(ぶんあん、ぶんなん)元年(1444)に防州(周防国、山口県)の龍文寺(りゅうもんじ)の僧雲海が熊野権現に参籠して産田神社に参った際に彼に帰依して創建しました。江戸時代は産田神社の別当寺となっています。龍文寺は合併前は都濃郡都濃町(つのちょう)、現在は周南市にあり、山陽本線の徳山駅からバスで40分。山口県最大の川錦川が流れており、この川の下流に錦帯橋が架かっています。寺は山口の守護大名大内氏の重臣陶氏の菩提寺で、陶晴賢(すえはるかた)が大内義弘を滅ぼしますが、厳島の戦いで毛利元就が晴賢を滅ぼした後は毛利氏が寺を保護します。曹洞宗の大寺院だそうです。この寺の僧が熊野に参詣した縁で安楽寺が創建されたということになります。熊野信仰の広がりが分かります。


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