神武天皇と熊野ー日本書紀の伝承

『日本書紀』神武天皇即位前紀に書かれている神武の熊野での出来事です。
天皇はイツセを葬った後、六月乙(きのと)未(ひつじ)朔(ついたち)丁(ひのと)巳(み)に、軍勢は名草邑(なぐさのむら、現在の和歌山市南部から海南市にかけての地域)に進軍して、名草戸畔(なぐさとべ、この地域を支配していた女性の首長)を滅ぼし、はるばると狭野を超えて熊野神邑(くまののみわのむら)に到着して天磐盾(あめのいわたて、神倉山との説があります)に登り、そこから引き返し、船で海を渡ります。その時に暴風に遭遇して船団は翻弄されます。そこで稲飯命(イナイ、神武の二番目の兄。長兄は竈山に葬られたイツセ)は嘆いて言います。「我らが先祖は天の神であり、母は海神の娘であるのに、どうして我々を陸上で苦しめ、また海でも苦しめるのか」と言い終わると剣を抜いて入水し、鋤持神(さいもちのかみ)になりました。三毛入野命(ミケイリヌ、神武のすぐ上の兄)も恨んで言います。「自分たちの母も伯母もどちらも海の神の娘なのに、どうして荒波を起こして溺れさせようとするのだろうか」と言って波を踏み越えて、常世(とこよ)の国に行かれた。
それで兄弟はみないなくなり天皇は一人になって、皇子の手研耳命(タギシミミ)とともに軍団を率いて進み、熊野の荒坂津(あらさかのつ)に着かれた。荒坂津はまたの名を丹敷浦(にしきうら)と言い、ここで丹敷戸畔(にしきとべ、名草戸畔と同じく地域の女性首長)を滅ぼします。その時、神(丹敷戸畔のこと。卑弥呼のようなシャーマン)が毒気を吐いたため軍団は気を失ってしまい、どうすることもできなくなりました。熊野に高倉下(タカクラジ)という人がおり、その人が夜寝ていて夢を見ました。その夢とは、天照大神が武甕雷(タケミカヅチ)を呼んで言うのに、「聞くところによると葦原中国はかなり騒々しいらしいからあなたが行ってなんとかしなさい」。武甕雷神が答えて言います。「私が行かなくても、私が国を平定した時の劔を差し向けましょう。それで国は鎮まります」。天照大神は「いいでしょう」と言って賛成します。そこで武甕雷神は高倉下に言います。「私の劔の名は韴靈(フツノミタマ)と言い、今この劔をあなたの倉の裏に置くから、それを取って天孫に渡しなさい」。高倉下は「承知しました」と答えて眠ります。翌朝早く夢で教えられたように、倉の戸を開けて見ると、劔が落ちていて床に逆さまに刺さっていました。早速その劔を持って天皇のもとに行きました。
その時、天皇はよく眠っていましたが、突然目を覚まして言いました。「私は長い間眠ってしまった」。また毒気にあたっていて眠っていた兵士たちも目が覚めました。そこで軍団は大和に向けて出発しますが、山は険しくどうして進めばいいか困っていると、天皇は夜に夢を見ました。その夢の中で、天照大神は天皇に言います。「私がこれから頭八咫烏を遣わしますから、あなたはその案内にしたがって行きなさい」。果たして頭八咫烏が空より翔け降りました。天皇はこれを見て、「この鳥が来ることは夢で見た通りだ。めでたいことだ。素晴らしいことだ。これは皇祖の天照大神がこの事業を助けてくださるということだ」と喜ばれた。
この時、大伴氏の遠い先祖の日臣命(ヒノオミ)が、大来目(おおくめ)を率いて、山道を行き、烏の行くあとを追ってついに菟田下縣(うだのしもあがた)にたどり着きました。そこを菟田穿邑(うだのうがちのむら)と名付けました。そして天皇は日臣命に言いました。「あなたは勇気を持ってよくここまで案内してくれました。その功績を持ってこれからは道臣(ミチノオミ)と名前を改めましょう」。
やっと天皇軍は険しい紀伊山地を越えて宇陀に到着しました。『日本書紀』ではこの後は「兄猾(えうかし)、弟猾(おとうかし)」のエピソードになります。


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