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優れた批評とは何か*滝本晃司さん。竹中労さん。小林ハルさんをめぐり音楽批評/音楽評論を問う


歌そして音なる旋律はそのひとの身体と精神の内奥から訪れくるものだ。
それは既存の音楽ジャンルとの表層の近似性類似性を超えた、そのひとコアの深層領域から訪れる共振やヴァイブス(波動)であって。
言語表現に纏わる文体のヴァイブス同様、音楽表現に纏わる歌体/音体のヴァイブスも確実に存在する。

そして私はそのヴァイブスにこそ強烈に引きつけられるのであり、その最たるものが滝本さんの全存在であり全表現であり全音楽なのだ。
小手先のジャンル解析でお手軽に記号的に腑分けされる言葉が一向に響かないのもそれに尽きる。優れた批評や評論はかならずその対象との深き感応と交感が存在する。

その対象と対等に対峙し、個と個が深く強烈におのれを晒して徹底的に剥き身の裸身で向き合う。
私は大学時代のナウシカ論にあたり、批評や評論のあり方についてそう師から学んだ。

宮崎駿さんという圧倒的巨人の作品に対し、自分のような何も知らぬ無知の若者が批評するなど畏れ多くて無理だ。凄いものは凄い。それだけで充分ではないかと。そう言って批評行為をためらう学生が少なからずいた。が、それは違うと、師は言い切った。

どんなに無知で稚拙で浅学であっても、宮崎さんの思想の深さに太刀打ちできる言葉も思考力も知の強度も持ちえなくても、いまの自分自身の感覚と思考と言葉でまっすぐ対等にその作品と対峙し格闘することは、かならずみずからのかけがえなき糧になる。

そうやって作者と評者が同じ地平に立ち、主体と主体でその作品に向き合い、脇に引き下がることも手心を加えることもなく、まっすぐ対等にその作品を探る。味わう。考える。それこそが批評における気づきであり学びでありみずからをゆたかに膨らませ、果てにはみずからをも深く知ってゆく営みなのだと。

批評経験の多寡ではない。批評のレトリックのうまさでもない。はじめての批評であっても、どんなに稚拙であっても、畏れず逃げず徹底してみずからを裸身に晒しその対象と向き合った批評はかけがえなき密度とたましいの深さを持つ。それこそがかけがえなき強度となり、かけがえなき財産となるのだと。

写真家で民俗学者の内藤正敏先生も仰っていた。芸術のための芸術。写真のための写真。民俗学のための民俗学と。一分野への固執が世界を形骸化させ貧弱化させるのだと。もっと自由に行き交い溶け合い化学変化を起こせばいい。

先生ご自身、みずから撮られた写真の直感を元に出羽三山や遠野物語の精神宇宙を深く論証したように。
写真の呪術性異界性をもちいて民俗学論文を書く/肉眼では視えなかった精神宇宙を見いだす。さらには絵画描写の手ざわりで言葉を書く。写真展示の手法で絵画展示するなど。幾重にもゆたかであれと。

音楽批評や音楽評論もしかり、だ。
私はひたすら周縁の者ゆえ業界の実態はよくわからないが、音楽批評の世界は音の傾向を即物的記号的に腑分けしてカテゴライズするのがセオリーなのだろうか。

私の言葉は質感と体感の言語であり。私の表現や批評や感想のすべて、私が私として生きてきた体験体感時間のエッセンスの総体だ。
生きてきたすべての感覚と手ざわりで言葉を書く。想う。感じとる。
そうして滝本さんはじめさまざまな表現者の方たちの影響を受けつつ、いとしくゆたかに大切に大切にここまで膨らませ/生まれ続けてきた私自身の言葉と表現を、私は心から愛している。

ゆえに音楽評論も、評者自身の軀体と人生の総身の感応のヴァイブスがありったけ感じられるものを心から愛する。
竹中労さんの絶筆となった歴史的音楽評論『「たま」の本』はまさにそれにあたる、おのれの歌の精神史の霊性と肉厚まるごと体当たりでたま讃歌へと昇華させた渾身の名著だ。

その点から鑑みても、滝本さんの音楽性が後期ビートルズやたまの音楽で確立されたなどという批評はあまりに短絡的すぎると思う。その言葉は滝本さんの音楽性がたまで終わっている。たま以前/たま以降、進化も変容も遂げてないと断じているようにすら聞こえる。私はまったくそうは思わない。

それこそ10代から始まった滝本さんの音楽的キャリアの実験的試行錯誤の季節も、たま以降〜いまここの最新の滝本さんの年を追うごとにますますシンプルに想いや実存を限りなく優しく熱く猛く素のままにひらいていく歌や音や言葉のかたちをも斥けた、音鳴りの近似性類似性のみで判断した即物的批評だと。

さまざまな談話記事の他、ご自身から直接お話を伺う中で、10代の滝本さんはみずからの音楽表現のオリジナリティを鍛えるべく、多岐に渡り芸術書を読まれたり哲学的思索や対話を繰り返したことが伺える。
「この世とは何か」と徹夜で仲間と議論したことも一例だ(その情景が「朝ははらぺこ」の原風景になった)

アンケートでもう一度戻りたい年齢に「19歳」を挙げていたこともその証左だ。
滝本さんの19歳が「G線上のスキップI」「『夏です』と1回言った」「日傘をさしたカブト虫」「犬が散歩する日」など数多くの名曲を生む豊穣年だったことも。その19歳がシド・バレットを繰り返し繰り返し聴き続けた印象深き年だったことも。

さらにはleteカレンダーでも19日のレタリング数字を強く強調した月があり(2017年11月)
あくまで私の直感と類推であるものの、「数字の19へのこだわりや19歳という年の出来事を深く追想するご様子を見ても。やっぱり滝本さんにとって19歳は大変重要な年だったんですね」とご自身にお伝えしたこともある。

「19」が強調された2017年11月カレンダー(2017年10月lete下北水中ライブにて配付)


だからこそたとえビートルズやたまを感じさせる音であっても、そこにやどる想いや香りや温度や言葉のヴァイブスはそうした滝本さんご自身の10代や19歳を含む、これまで生きてきた60年あまりの歳月のトータルな記憶や身体性精神性がどうしようもないほど深くいとしく色濃く匂い立っているわけで。

音楽はそのひとの想いや記憶、心の領域から生まれくるもの。
それこそが聴き手の心や身体をうれしく共振させる。
そういった身体性精神性抜きに、たんなる音鳴りだけで安易にジャンル分けの鉈をふるいジャッジを下すその行為こそが、その音楽をゆたかに聴く機会を失わせているのではないか。



私自身、滝本さんの「G線上のスキップI」(現時点での最新ソロアルバム『星がいっぱい』所収)のレビューにおいてたまやビートルズ中後期との類似性にうれしくふれているものの、主眼はそこじゃない。
あくまでもいまここの最新の滝本さんの作り出したこの曲の怪物的魅力の凄まじさとモノリス的存在感/世界樹的イメージについて、ありったけの感度で語りまくっているだけ。


大衆性はそこまで大切なのか。なぜ入り口が大衆性である必要があるのか。
なぜ音楽を聴くことに初心者/上級者を振り分ける必要があるのか。
音楽を聴くことに上も下も入門も履修もお伺いも関係ない。

『水槽の中に象』などアルバムや音源への個人的オススメは全然いいとして、なぜ上級者向きとわざわざ敷居を高くし、最新の滝本さんの音楽への道行きを閉ざそうとするのか。
音楽批評なるいとなみが未知のリスナーへのフラットで優れた入り口であるなら、それこそ広く分け隔てなく滝本さんの全音楽を聴いて頂けるよう言葉が紡がれていいはず。

かねてから繰り返す通り、滝本さんの最新ソロアルバム『星がいっぱい』(2020年8月リリース)。
私は滝本さんの60年あまりの音楽家人生の大成として、滝本さんの想いと熱情が純度100%に炸裂する作品として、何より「おのれの音楽を練り上げる闘いをたったひとりで逃げずに最後まで貫き通した初の作品」として、滝本さん史上最高の、第一級の記念碑的名盤だと思っている。

◎滝本晃司さん新アルバム『星がいっぱい』*滝本さんソロ、第一級の記念碑的名盤として

◎滝本晃司さんの新曲みずいろに捧ぐ*(2020年5月17日未明、突如YouTubeで公開された新曲みずいろへのレヴュー)

◎ 【みずいろ】アルバム『星がいっぱい』収録曲レビュー

◎ 【G線上のスキップⅠ】同。収録曲レビュー

◎【真昼の月】同。収録曲レビュー

◎【ずっと鳴きつづけてる】同。収録曲レビュー


かといって過去のソロアルバムの素晴らしさが色褪せるはずないし打ち消すつもりもないし、どのアルバムも存分にその時その瞬間の滝本さんのいのちのつまった泣きたくなるほどかけがえなきアルバムであることに変わりない。だからこそ興味ある方には分け隔てなく自由に味わってほしいと心から願うだけ。

『星がいっぱい』の前哨的サントラとも言える『ドロステのはてで僕ら』を、「苦悩と喜びの繰り返し」と仰っていた滝本さん。「一人で全ての楽器、隅々まで演奏しました」という象徴的言葉とともに、いまなおこのツイートを見るたびご自身の苦しみと逡巡の想いが鋭く伝わりぽろぽろ涙が出てきてしまうけど。。
そんな情ゆえに記念碑的名盤と評すわけじゃない。それこそご自身にも作品にも失礼だ。



音楽はこう聴くべきとか初心者上級者とか聴きやすさがどうとか、本当どうでもいい。
「この曲はこういう風に聴くべきだとか古典だからとか。だめですね、ぼくはそういうの」と、滝本さんご自身もきっぱり仰っている通り(『「たま」の本』p46)。私も心からその言葉に同意する。

なぜ音楽批評なるものを通し、音楽=音を楽しむ行為に不自由さを課すのか。どう聴いたっていいではないか。どう解釈したっていいではないか。
私の長文感想を「読み物として面白い」とストレートに褒めて下さった滝本さん。「何でもいいんだよ自由に聴いてくれれば」と。その言葉が凄く凄く大きくて優しくて暖かくて嬉しかった(泣)

あれはだめこれはだめといろんな規制をかけガジガジに膠着した音楽の聴き方をして、ほんとうに歌や音やたましいが共振するのか。そんな聴き方でほんとうに音楽が楽しめるのか。そんなことお構いなしにゆるやかに広やかに、いまここのおのれの耳に聴こえてくるその歌と音に身をゆだねればいいではないか。

というかそちこちに散見される音楽批評の中に大衆性とか上級者なる言葉が登場する時点で、権威や徒弟制度やお墨付きに縛られている印象がどうしても拭いきれないのだ。
私が師や内藤先生の言葉を挙げたのは権威や徒弟制度への依存ではない。身をもってそのゆたかさを体感しているからだ。どんなに尊敬する先達の方々であっても、みずからの方位と異なることは一切採用できない。

そもそも上級者とは何か。数多くの音楽を聴き知っていれば誰もが上級者になれるのか。
私にとって歌や音楽は相聞や挽歌や心性や霊性や精神やたましいの領域からどうあっても切り離せないものであって。歌や音楽に感応する心。歌ごころ音ごころのありか。そういうものに上も下も上級者も初心者も一切関係ない。

個の存在を消し去り無私性に徹した評論を評論と呼べるのか。
作者の背後に付き従い、作者の世界観にのみ閉じこもり規制をかけた評論を評論と呼べるのか。
そうした評論から、作者さえ気づかなかったあらたな一面を作品から発見しその魅力を讃え、まだ見ぬひとたちへ手渡す。そのような循環が生まれるのか。

というか「無私性に徹した評論」などほんとうに存在しうるのか。
何かを見聞きしてそれに反応し言葉を発する。その行為を選び取っているのは他ならぬおのれ自身ではないか。反応体として言葉を放つ、その行為においておのれなる「わたくし」の介在を断つことができるなら、いまここになま身の肉体を持ち現存する私とは何者なのか。あなたなる意識体を持つあなたとは何者なのか。

私たちの言葉にはおのれなる個の身体性が逃れようもなく投射される。そんなかけがえなき個のありようを、私自身/あなた自身がいまここで放擲する。ほんとうにそんなことが可能なのか。あるいはスピリチュアリズムにおけるワンネスの思想や分離の概念なども承知しつつ、思う。



かつて存在した瞽女(ごぜ)という方たち。
数人で列を組み峻険な山々を越え、農村各地を三味線で唄い語り門付け(かどづけ)して歩いた盲目の女旅芸人。竹中労さんも『たまの本』p206でふれていた瞽女。
目の見えぬ彼女たちは目明きの人を先頭に、彼女たちの歌を楽しみに待つ人々の元へとどこまでもどこまでもその足で歩いていった。

私は最後の瞽女・小林ハルさんに2度お逢いしたことがある。
1度目は新潟胎内市の盲養護老人ホーム「胎内やすらぎの家」を1人で訪ねて(若い人が訪問するとハルさんも喜ぶからと、お弟子さんの竹下玲子さんに強く勧められ訪ねた)。
2度目はやすらぎの家で開かれたハルさんを囲むお祝いの会。こちらは友人と一緒に。

そして初めて95歳ハルさんの唄を聴き、とてもちいさなその身体から発せられるマイクなしの唄声がいきなり第一声から広々した大広間の一番後ろの襖までビリビリ振動させる声量で届くことにめちゃめちゃ衝撃を受け総身で感動した。
瞽女唄定番「葛の葉子別れ」。
母は信太へ帰るぞえ〜母は信太へ帰るぞえ〜〽︎〽︎〽︎

西洋音楽の発声とはまるで異なるそれ。
日本の芸能者の語りものの発声は喉を潰すことで確立される。実際ハルさんも真冬の新潟信濃川の極寒の河畔に立ち、結い髪を背中の帯で縛り寒さで身体が丸まらぬよう無理やり姿勢を正し、そうして文字通り血を吐き喉を潰す寒稽古を重ねて重ねて…その唄声を鍛えあげた。

そんなハルさんの唄声を前に、その身体から生まれくる途方もなき歌の精神史の実存を前に、音鳴りで記号的に腑分けする音楽評論など語れるのか。
というかその大衆性の影に逐いやられた素晴らしきマイノリティ、周縁の音楽を掘り起こして世に問うことこそ、優れた評者としての腕のみせどころではないのか。

というかこれらの問い立て自体、私自身に問うてる部分も多々あって…本当どうなのか、と。私自身の言葉や批評行為を見つめ直すきっかけにもなり。結果として以前から書きたかった滝本さん19歳の話や竹中さんハルさんのことまで書け、思想は違えどよいきっかけを頂戴できてよかった。

そしてたまや竹中さんやハルさんやさまざまな音楽や短歌の系譜をはじめとして、無数に私の中に響(とよ)もし続けてきた途方もなき歌の精神史の最もいとしくていとしくていとしい最終終着地として滝本さんに出逢えて。いまここの私の帰着する場所として滝本さんが暖かく生きてて下さること。本当に本当に嬉しい。

私は批評は作者へのことほぎだと思っている。それは作者におもねることでも媚売ることでも服従することでも提灯記事を書くことでもない。
真摯な愛と感応を持って書かれた批評はかならず読み手をその作品へと誘導するちからにみちている。たとえ批判の文脈が宿っていてもその誘導のちからは消えない。

竹中さんは「活字は歌わず、ぼくはもどかしい」と仰っていたけれど。(同p108)
いやいやどうして。『「たま」の本』は竹中さんのたま愛を起点とした歌の精神史のヴァイブスがめちゃめちゃゆたかに流れている。文体から筆致から絶え間なくリズムが流れている。それこそ個なる竹中さんから生まれたかけがえなき白鳥の歌としての絶筆。「評論なる歌」なのだ。

だからこそ音楽の聴き方にせよ、評論のあり方にせよ、それぞれの欲望の赴くままありったけ自由にやわらかくあやなしていけばいいと心から思いつつ。
いずれにせよ私自身は、優れた評論はおのれの総身をもって剥き身でその対象と対等に向き合い、愛し、強烈に個を打ち出すことでしか生まれえないと強く強く思っている。



(2022年2月11日ツイートに加筆。再構成)


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