音楽の原子化

こんにちは、クレスウェアの奥野賢太郎です。2020年もどうぞよろしくお願いします。

今年は、いままで雑多にTwitterに呟きがちだった内容を、もう少し推敲してnoteにまとめていこうかと思います。もし読者の共感を得られたり、何か本稿中に不足している情報をご存知でしたら、お気軽にコメントをお寄せくださいね。

音楽はどこまで分解できるか

さて、今回考察するのは、音楽はどこまで分解し、分子や原子のように細かくできるのかという話。

そもそも音楽は分解しきったとき、それは発音のひとつなのか、音波の1周期なのか、判然としません。あまり分解しすぎると音楽ではなく音響学の分野に突入してしまうからです。

では、そうならない程度に定義できるよう分解するとどうなるか。パッと思いつくのは、楽譜にも用いられる「小節」や「拍」の概念。これらは、もちろんMIDIやMusic XMLといった、音楽をデータ構造として表現するためのフォーマットにも採用されています。

じゃあ原子は拍、分子は小節でいいか?というと、ちょっと気になることがあります。楽譜で表せない曲はどう解釈するのかという問題。

楽譜で表せない曲

楽譜で表せない曲は、歴史的に非常にたくさん存在すると思われます。

ひとつは現代音楽。私は現代音楽の世界や最新の事情に精通しているわけではないですが、楽譜の表現に捉われない発音の列挙による創造は、よく見かけるところです。ノイズミュージックもそのひとつだと思われます。また、ジョン・ケージの4分33秒は楽譜にこそなっているものの、TACETとしか表現されていないことでおなじみ。

もうひとつの楽譜になっていない曲は、民族音楽の類。西洋音楽文化圏に属さず、かつその文化圏においてカルチャライズされた楽譜に類する概念を保持しないところで生まれた音楽。口伝えや、現代でもせいぜい録音による伝承が主。あるいは、楽譜の概念を有していたとしても、その適用範囲が限定的であるものです。たとえば日本国内だと三味線譜や、沖縄の工工四(クンクンシー)といったもの。

なので「楽譜では表せない」というよりは「西洋音楽の楽譜というプロトコルでは表現できない曲」といった方が、より正確なようです。

インタラクティブ・ミュージック

現代での音楽表現の観賞手段は、録音された創造物から聴取するだけではありません。特に現代技術と密接なのが、昨今のゲーム音楽におけるインタラクティブ・ミュージックをゲームプレイと共に聴取することです。

これらも楽譜では表現できない音楽の筆頭です。単なるループ音楽については、楽譜にも繰り返しの概念があり、(たびたび例示しますが)ヨッシーに乗った時に打楽器が増える演出もアレンジ違いと捉えることができます。本当に楽譜上の表現が難しいのはゲームプレイヤーの操作・ゲーム内の状況に応じて曲そのもの(メロディやアレンジなどが複合したもの)が変化していく類の音楽です。

それらのゲーム音楽は、プログラミングされる過程で素材化されており、動的な合成によって表現されています。音楽収録の現場では、その素材単位で録音されますから、素材単位でみればそれらは楽譜化されていると捉えることは可能です。ただ、音楽の開始から終了がどれくらいの時間で、全体の何割で次の展開になり、どのように終わるかを決めることができるのは、リアルタイムに操作するプレイヤー自身です。

もし、ゲーム音楽における1曲を「サウンドトラック商品における1トラック」と定義してしまうのであれば、これらを無視した、本来意図した表現とは大きく異なる限定的な解釈のみが取り上げられてしまうことになり、それは幅広い音楽を抽象化していく上で望ましいことではありません。(この手の話題はじーくどらむす氏の『ゼルダの伝説ブレスオブザワイルドのサントラを買う人が知らないゼルダBGMの裏側』などの記事に詳しいです)

音楽の原子化における解釈のカギはどこか

ここまでの考察から、音楽というとても広大な概念を抽象化して原子に相当する概念を導出していくとき、西洋音楽を基とした解釈には限界があり、むしろそこに属さない音楽らを含めた視点から解釈していく必要があると分かります。楽譜というプロトコルは高レイヤーな定義であり、それらを構成するさらに低レイヤーのプロトコルに辿り着く必要があるのです。

今回はここまで。次は音楽以外の学問から類似点を考察していきます。

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