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奥野賢太郎の2010年代を振り返る

こんにちは、クレスウェアの奥野賢太郎です。2019年もあっという間に終わり。今回は2010年代が終わるということで、自身の10年間を一挙に振り返ってみます。

何者か

私は、2018年の8月にフリーランスのWebデベロッパーとして独立しました。現在は『クレスウェア』の屋号をもって日々業務に就いています。ところが、10年前はIT業界からほど遠い音楽業界におり、そこから数多くの変遷を経て転職し、今に至ります。

要約

・ 2010年から2014年までは音楽業界に身を置いていた
・ 2013年からObjective-Cの学習を始め、それがデベロッパーとしての第一歩だった
・ 2015年にAngularJSの案件を頂いたことでプロを志した
・ 2019年に株式会社トレタさんのお仕事をお手伝いし、社の飲食業界に対する思いと自分の音楽業界に対する思いに近いものを感じた
・ 2020年代はWebにコミットしつつ3本目の柱として経営を成り立たせる

2010年に何をしていたか

2010年は22歳。駆け出しのフリーランス・ミュージシャンという危険な橋を渡り始めて、2年目に突入した頃です。2019年になった今でこそ、私の出自がデベロッパーに由来していないことに驚かれるのですが、実は学生時代を終えたあと、私は数年の間、音楽業界に身を置いていました。

もともと職業としての作曲家を志したのが中学生の頃で、そこから大学には進まず音楽のアカデミックな学習を受けました。2010年はまだスマートフォンが一般的になる直前だったので、主にガラケーアプリのゲーム音楽を数タイトルと、PSP用タイトルの音楽・効果音などの制作を受託していました。

「どうやったら一流の作曲家として大成できるのか」それをひたすら考える毎日だった記憶があります。当時の収入は今からではとても考えられない、とても一人暮らしなんてできる金額ではなかったです。

Twitter @okunokentaro のアカウントを開設したのが前年2009年だったので、当時はまだ目新しさすらあったTwitterを使って、色々と活動のアピールを心がけるようになったのもこの年です。でも、今とあまり変わらないですね。Twitterで面白そうな人を見つけたらフォローし、機会が有れば実際にお会いしてみるというスタイルは、この10年間変わっていません。

iPhone 4を買ったのも2010年。この10年間は、iPhoneやTwitterの登場によって大きく生き方が変わりました。

なぜ9年前のことが細かく思い出せるのか

もともと思考が好きな人間だった私は、2009年からGTD (Getting Things Done) というタスク管理術を独学で学び、日常の業務から長期的な目標に至るまでのあらゆる「気になること」を管理していました。初期は紙を用いていましたが、途中からiPhoneによる管理に切り替え、その時の膨大なログが今もなお残っています。今や、わざわざ眺めることはしませんが、その気になれば詳細な行動の追跡が可能です。

もうひとつ、この時期ちょうど私はピーター・ドラッカーの著書に熱心でした。そのときに読んだ内容で印象深いのが「時間を管理しろ」というもの。いまその書籍が手元にないため正確な引用はできないですが、時間を管理できない者には何も管理できない、といった内容が綴られていたと記憶しています。

そこで、ちょうどiPhoneを使ってライフログの記録を始めました。寝る時も、移動中も、食事中も、仕事であればなんの仕事か、誰と共にしたか、すべてを分単位で24時間記録し続けるのです。これを約10年間、まったく絶やさずに続けています。今「7年と11ヶ月前の昼にどこで何を食べたか」と言われても、ログを読めば分かります。これって10年続けてみて思ったのですが、かなり驚異的です。

仕事の間だけタイマーを回すのではなく、24時間付け続けたのが功を奏しました。約10年間この習慣を絶やさなかった今では、おおよその予定から逆算して移動や準備、起床時間を割り出せるようになりました。駅構内の移動時間の短縮、乗車位置ごとの効率といった移動のあらゆる最適化も、このログによって成されています。まあこれは些細な例ですが。

私は、自分の人生を「奥野賢太郎という人物の経営」だと思っています。なかなかこういう人は少ないかもしれません。これまでの生涯、正社員でいる時間よりフリーランスでいる時間の方が長いのもその証左ではありますが、自分自身の経営は、自分にしか務まらないと確信しています。そしてそのなかで、いつどういう出来事があり、どういった人達と出会ってきて、今後何をして、最終的にどうありたいのか、それを考えるのはまさにKPTや経営方針といったものにあたります。それを導き出すには根拠となる情報の蓄積が必要です。GTDによるタスク管理、そして24時間365日のライフログ記録を続けるのは、このためなのです。

続いて、2011年以降を振り返ってみます。

東日本大震災

2011年、この頃の自分は、アルバイトをしながらでも東京で音楽屋の端くれになりたいと望むようになり、故郷の京都から東京に進出することを本気で考えていました。これは今思えば随分無謀でしたが。

しかし、それも3月11日の東日本大震災までです。

震災によって東京も、音楽業界も、少し流れが変わったと思います。「とりあえずちょっとバイトをしながら仕事させてください」という雰囲気ではなくなったかな。この頃から、自分は京都にいながらどうやって音楽家として大成できるか、ということを日々考えるようになりました。

知識の集積の効率化とは

記録には残っていないのですが、2006年頃から私はウェブデザインのアルバイトを片手間に始めるようになっていました。のちにJavaScriptなどを扱うようになったのは、このウェブデザインのアルバイトがきっかけです。

当時、音楽をひとつ作るのにDAW(音楽制作用アプリケーション)の操作に長けている必要があるのは当たり前だったのですが、自分の場合さらに学生時代にMIDIに熱中し、仕様書まで読み漁るほどに特化した時期がありました。ウェブデザインの延長で簡単なプログラムを書く機会はあったので、それを活かしてDAWのマクロスクリプトを書いて操作を自動化するようになったり、サンプラーの発声スクリプトを書いたりをしていました。作曲そのものより、音楽制作環境の構築に熱中してしまったのも2011〜2012年頃です。

まだこの頃自分は、デベロッパー気質があるということへの自覚が無いのですが、徐々に紙中心の音楽情報の管理に嫌気がさしていました。当時、膨大な数の耳コピを日課としていた私は、年500曲という数の耳コピを繰り返しては、モレスキンの五線譜手帳に記していました。5, 6冊は埋まったかと思います。それらはすべて手帳とペンによって成り立っており、書くことで脳内の蓄積にはなったとしても、情報の検索性は致命的に低いものでした。

あるベテランの先輩は、ライブハウスにスーツケースを持ち込んでいました。中身は全部楽譜です。インデックス付きの膨大な楽譜をファイリングし、それを転がして運んでいるのです。尊敬すると同時に、なんて無駄が多いんだろうと感じてしまいました。当時の音楽業界の大半は、まだまだ紙に支配されていたのです。

いつしか自分の目標は、音楽家として大成することより、この知識の集積に宿る無駄をいかにして排除できるかということに移っていました。この目標は野望めいたものですが、今なお変わっていません。

iOSデベロッパーを体験する

「音楽アプリを作って、売ってひと山当てよう」そんな身も蓋もない事を言い出したのは2013年です。

音楽の教育はきちんと受けた、業界経験も少なからずある。そんな人間が音楽アプリを作ったら、音楽を分かっていない人間がアプリを作るより、もっとミュージシャン目線に立ったものにならないだろうか。そんな考えで、急にObjective-Cの学習を始めました。

SwiftはWWDC 2014にて発表されたプログラミング言語なので、まだこの頃は生まれていません。ではなぜObjective-Cかというと、WindowsやAndroidより、iPhoneやMac用のアプリを開発できる言語であることが魅力的に思えていたからです。

とりあえずお金がない自分は、図書館に入り浸ってはそこにあった技術者向けの本をひたすら漁りました。Objective-CやXcodeに関する本も、運良くありました。ただ「JavaScriptのif文がちょっと分かる…」程度のプログラミング知識だった自分には難しすぎた記憶があります。コンパイラ、オブジェクト指向、インスタンス、出てくる言葉が片っ端から分からないのです。たぶん分かる人向けに書かれた本なんでしょう、それがまったく分からないのです。

これには出鼻を挫かれました。アプリを売って当たるのと、音楽家として大成するのと、どっちが可能性があるか…。目の前が真っ暗になっていました。

しかし、ここでアプリをひとつ作る術でも身につけておけば、今後何かのときに面白い流れになるかも。そう思って立ち上げたTwitterのサブアカウントが @armorik83 です(現在は使用していません)。当時 @okunokentaro アカウントのフォロー、フォロワーのほぼすべては音楽業界関係者、そんな人物が急にObjective-Cのことしか呟かなくなったら…。あまりのクラスタ違いを感じ、プログラミング専用にアカウントを分けたのです。

その後、なぜそう呼ばれたのかまったく分からないのですが、アカウント名の数字だけを取り上げられ、83→「はちさん」というあだ名で呼ばれるようになったのは、このサブアカウント名に由来します。

勉強会文化に触れる

本のチュートリアル通りにアプリをひとつ作ることすら苦労しているので、とりあえずデベロッパーの友人知人を増やしたい、そう思って闇雲に検索した結果、見つけたのが第50回 Cocoa勉強会関西でした。これは京都の株式会社はてなにて開催されました。

それまで自分が参加したことのある勉強会といえば、楽器屋主催のDAWセミナーや、プラグインセミナーといったもの。周りが全員デベロッパーである(かは定かではないですが)という環境に踏み込むのは初めてで、かなり緊張感があったことを覚えています。今まで周りはミュージシャンか、ライブの観客だったような状況。業種の異なる、別世界がそこにありました。

音楽の技術の共有というのは(これは偏見も含みますが)だいたいクローズドなもので、技術継承は師匠と弟子の間のもの、公の場で全体にむけて無料でノウハウを公開するなんてそんな…といった空気があったように思います。音楽の技術を文字情報で共有することは困難なので、対面での伝授となり、大体は恩師との信頼によって獲得するか、月謝を支払ってレッスンにて得ることが普通です。2019年になった今、ようやく作曲家YouTuberといったジャンルが生まれてきたことから、かつて特有の閉塞感を感じていた方々は、案外いたのかもしれません。

デベロッパー向けの勉強会に話を戻します。ここでは無料で積極的な情報発表や技術共有がなされ、無料でピザが出てきて無料でビールも出てきて…。いったいなんて業界なんだ!という気持ちになりました。自分が開発者としてのスキルをもっと磨く道もある、そう感じたのがこの頃です。

2019年現在、多くのデベロッパー向けコミュニティ活動に精を出しているのも、ひとつにはこの頃感じた喜びを還元したいというモチベーションがあります。

長い通勤と劇場勤務

2014年、師匠として慕っている方から、いろいろ縁があり面白い案件をいただきました。阪急電鉄の某終点駅にある某劇場のスタッフという内容です。ここでの業務内容は詳しく書けないのですが、下積みらしく劇場の裏を走り回っていました。朝はとても早く、帰りは終電という世界。

京都の実家暮らしで片道2時間、往復4時間かけて向かう某劇場は、それはもう遠いものでした。その通勤時間に何をしていたかというと、音楽の勉強ではなく技術の勉強です。マーティン・ファウラーの著書やエリック・エヴァンスのDDD、GoFのデザインパターンなど、おおよそ名著と呼ばれたものはなぞったと思います。徒歩を除いても3時間は読書時間がありますので、それなりの数の本を読みました。振り返ってみれば、2015年以降今に至るまでの知識の基礎は、すべてこの通勤時間中の読書で養われたと思います。

劇場という、業界関係者も多数出入りされるこの空間。聞いた話、見た光景には、よくも悪くも「音楽業界の光と闇」がありました。これらは「実は自分は音楽業界を志していない」ということを自覚させるのには充分でした。ただし、この経験は不服ではなく、代えがたい貴重な経験だったと思います。そしてこの時期、ここまで技術学習に力を入れたのは、デベロッパーという職業に勝機を見出していたからに他ならず、2014年は虎視眈々と次の動きを企んでいる時期でした。

AngularJSとの出会い

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今なお、副オーガナイザーとして支援を続けているコミュニティ『Angular日本ユーザー会』、そのコミュニティを知るきっかけとなった技術 "AngularJS" との出会いも2014年です。某劇場勤務のかたわらで、AngularJSでの趣味プログラミングも捗っていました。

前年までObjective-Cの学習を続けてきた自分が、なぜAngularJSに舵取りを変えたか。それはひとえにObjective-CがAppleのアプリ開発にしか活きないと悟ってしまったからです。

Objective-Cのみを学習しても、もしAppleが潰れたら…(まあ簡単には潰れないでしょうが)じゃあ、もし言語が廃れたら自分はどうしよう…、という不安に起因した悟りです。現に同年、WWDC 2014にて新言語Swiftが発表されたことを振り返っても、このときの判断は正しかったと言えます。

アプリベンダー、ハードウェアベンダーに縛られないアプリケーション開発をしたい、そう望んだときに私の前に開けたのはWebの道でした。もともとウェブデザインをかじったことがあるという親近感もありますが、JavaScript, HTML, CSSという組み合わせでアプリケーションを開発できることは、とても親しみと希望を感じたものです。当時HTML5という言葉がまだ喧伝されていた頃だったかと記憶していますが、AngularJSはそんなWebの未来に近づく手法であると、当時妙に確信したものです。

同時に学習を始めたのはTypeScriptというプログラミング言語、当時はまだバージョン0.9で、まだ日本国内でTypeScriptを専門に扱っていた人間もそれほど居なかったんじゃないでしょうか。Objective-Cで散々型付きコンパイルありの言語を触っていたので、ここは抵抗感なく慣れることができました。私はJavaScript単体でのキャリアは(ウェブデザインを除いて)実は無くて、最初からTypeScriptを前提としたキャリアパスを歩んでいます。JavaScriptのみを経験しなかったことは、かえって風習に縛られることがなく、よかったなと思います。

プロのデベロッパーへ

2015年が、2010年代最大の転機です。前節で述べたAngularJSの勉強会にて知り合うことができた、尾上洋介氏を抜きにこの年を話すわけにはいきません。この10年間、非常に多くの方々と出会ってきていますが、最大のキーパーソンは誰かと言われたら、真っ先に尾上氏が挙がります。

忘れることのない2015年1月20日(これもログに残っています)、尾上氏から1通のメッセージが来ました。

それがAngularJSを用いたアプリケーション開発案件への誘い。二つ返事で引き受けて、喜び勇んで開発しました。今思えば、あれはとても拙いコードを納品したものだと思いますが、誘っていただき、さらに対価まで受け取ることになり、あの出来事は感謝してもしきれません。これがプロキャリアとしての第一歩です。

この時の誘いが決定打となり、自分は音楽業界ではなく、Webデベロッパーとして進むことを決心しました。音楽業界でお世話になった恩師の方々にも散々悩んでこれを打ち明けましたが、さほど驚かれることもなく、すべて肯定していただき、笑顔で送り出してもらっています。

それから、2015年の春から夏にかけて転職活動をして、トントン拍子に入社が決まり、怒濤の勢いで引越し先の物件を探し、あっという間に京都から東京へと引っ越し。この時の勢いはこの10年間でも随一です。2011年から「いつかは東京へ」と願っていたものが、こんな形で実現するとは思ってもいませんでした。

2015年9月からはChatwork株式会社のフロントエンドとして勤め、これが初のサラリーマン経験です。

三本の柱

2015年のChatwork株式会社への入社以降は、2017年に一度転職し株式会社ピクセルグリッドに入社、2018年8月に退職しクレスウェアとして独立、そして2019年からは株式会社トレタの外部アーキテクトとしてのお手伝いを始める、といったキャリアパスを歩んでいます。

2015年以前についてはまとまって話す機会も無かったので詳細に書きましたが、2015年以降のデベロッパーとしての歩みについては、これまでの登壇記事の蓄積や、CodeGridのインタビュー(有料)HTML 5 Experts.jpのインタビューなどを見てもらった方が具体性があるかと思います。だいたい、巨大なアプリケーションを開発しているか、コミュニティ・スタッフとしてイベントを切り盛りしているかです。

ここでは普段あまり話さないメンタリティについて話します。

高校時代、当時の担任に「自分は音楽をやる」と伝えたとき、やや渋い顔をされつつも大学進学を強制されなかったのは新鮮でした。その時、その担任に言われた言葉は今でもよく覚えています。

「三本の柱を立てろ。音楽だけなら一本だ、すぐに倒れてしまう。他に強みを見つけて二本、まだ倒れやすい。でも三本の柱が揃ったら簡単には倒れない。音楽で食っていきたいなら、三本の柱を立てることを考えろ」

高校生だった当時の自分は「なんていいことを言う担任なんだ」と驚きました。

これは最近にも話題になった記事、100万分の1の人材に通じる話です。自分の場合この10年間で、音楽と技術という2本の柱を立てました。結果的に音楽で食えたかどうかは関係ない、自分は音楽の専門性と技術の専門性を学んできた人材であるという自負です。

そこで重要になってくるのが3本目の柱をどうするか。そして次の2020年代の10年間をどう進んでいくか。これは自分の中ではっきりと答えが見えており、それは『経営』です。

2019年はあいにく具体的な動きを打ち出せていなかったクレスウェアですが、今後法人化、そして事業の展開を目論んで、日々どうすればそこに到達できるかを考え続けています。そして、経営といっても闇雲によく分からない会社を続けるわけではありません。音楽、技術、経営という三本の柱で、自分にしか思いつけないプロダクトを生み出すしかないと決心しています。

種まきから収穫へ

振り返ると、2010年代は種をまき続けた年代でした。

音楽技術の習得や、作曲技法の習得、共有、制作現場の効率化…自分はここにまだまだ新しいイノベーションが起こせると感じました。これに気付くことができたのが貴重な前半の5年間。

そして、大手業務システムの受託といった大規模開発や、SaaSでの開発業務、サービスのリリース、サーバーやデータベースの仕組みの習得、Webという現代の産業革命における奥深さ…、技術に存分に浸ったのが後半の5年間。

特に2019年にお仕事をご一緒した株式会社トレタさんは、デジタル化のされていない飲食店業界を技術の力で変えていくというミッションをお持ちで、これは音楽業界の隙間にイノベーションを起こしたいと考えている自分の思想や野望に近いものを感じ、とても共感しながらのお仕事となりました。

これら10年間の、音楽や技術の経験は自分にとって豊かな種まきです。これらをいかに腐らせずに収穫するかが、2020年代の勝負。

音楽業界のサービスといえば Spotify, Apple Music, Amazon Music Unlimited, Google Play Music…外資が圧勝ですが、一人でここと対等な勝負をするつもりはありません。もちろんビジネスモデルを持つことが必要ではありつつも、まずは自分がいま何を必要と感じていて、何が不足していて、何が提供できるか、その観点から今後の計画を進めます。

自分は一人の技術者である以前に、Webの世界に惚れ込んだ人間として、次の10年も深くWebにコミットしていきたい。そして音楽業界を、ひいては音楽文化をWebによってさらに豊かにしていきたい。そう望んでいます。

2019年もありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。

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