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「ひとり」では完結しないものがたり

最近ずっと考えていることがあって。

それは「わたしは「ひとり」では完結しない」ということなんですね。
どういうことかと言うと、インプットとアウトプットがセットなように、入れたものを出せる場所、みてくれる人が必要なんです。

服を買いました。
それ自体は自分の満足のためでもあります。
だけど、自分がよければそれでいいとはならなくて、その服を着た自分を誰かにみてほしい、そしてできれば肯定してもらいたいという心理がかならずセットであるんです。

こんなこと書くとかまってちゃんの本懐丸出しでほんと情けないしはずかしいんですが、まぁそうなんです。

他人軸というより、「他人に評価されたい」とおもっている自分軸とでもいいましょうか。(違うかな、わからんけど。)

だから面倒だなぁってつくづくおもいました。

ひとりで平気になりたいし、ひとりでどこでも行くようになったのに、絶対に埋まらないんです。
ここに誰かがいてくれたらな、一緒にいてくれたらなってどこかおもっちゃうんですね。

人はひとりでは生きてはいけないなんて高尚な(高尚かわからんけど)説法みたいな話じゃなくて、息を吸って吐くように他者を必要としている。そんな時がたまにあって。

それは、ある程度の期間ひとりならわりと平気なんです。
なれちゃってるのかもしれない。

だけどちょっとひとを好きになると、またはふっと距離がちぢんだとおもってしまうと、とたんに崩れてしまいます。

ひとりで平気だったものが途端に色をなくし、途端につまらなく感じられたり、無意味におもえたり。
いつも誰かのことをおもっていたり。

ひとりがいやになって人のいるところへ行ってみても、そこには自分のおもうひとはいないから、やっぱりちょっとちがうんです。

そうやってつみあげてきた自分だけの世界が一瞬にして崩壊していくさまを何度となくみてきたはずなのに、なんでまたもとめてしまうんだろうなって本当におもいます。

ひとりでいられたら、ひとりで完結できたならどんなにいいだろうと、なきたくなります。

だけどそうはいかないんです。
知ってしまったら知らなかった頃にはもどれないように、こわれてしまったらすぐにはもとどおりにできない。

いろんなことがてにつかなくなって、たのしいこともしんどいことも振れ幅がおかしなくらい上下して。

そんなふうに自ら不安定の渦に飛び込んでいくような無茶をするのがわたしにとっての恋愛なのかもしれない。

なんてことをおもったやすみの日の朝でした。

はー、なにいってんだろな。

とりあえず、あこがれのZUCCAさんの服を買ったのでだれかお出かけつれてってーー!!!
って話です。

また、お目にかかれますように。

Kao Tan

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