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私たちは自然のなかで生きている

こんにちは。おかゆです。
変人がホンキで生きてるコミュニティ『心象セカイ再考(シンセ)』を運営しています。普段はコーチングで自己理解のサポートをしたり、個性収集家として様々な方とお話するなかで個性を探求し、伝える活動をしたりしています。

今回は、シンセのコミュニティ内限定記事の中で、これは広く色んな方に伝えたいなぁと思ったものを公開することにしました。(一部リライト)

私たちは自然と共に生きている。
そんな観点から、どうぞ味わう時間になりますように。


2023.10.28 執筆

今回は、秩父のお話です。
先日、ご縁があり埼玉県秩父市皆野町と横瀬町にお邪魔してきました。

そちらで現地で活動されている方からお聞きしたエピソードと
近頃もっていた大きな問い「自然とは」
への自分なりの答えが出たので、綴っていきたいと思います。


山は資源であり産業である

秩父市内を移動する道中、なにやら白い石を運ぶ運送列車と遭遇しました。見慣れない光景に私は純粋に「すごい!」とテンションが上がっていたのですが、現地の方にお話を聞くうちにその見方が変わりました。

この白い石は、秩父にそびえたつ武甲山から採掘された石灰石、とのこと。この時点では「なるほど、山から採掘されたのか」という普段は知らない世界を知った感覚でした。

秩父には武甲山という山があります。
武甲山は登山客や山中にある三峯神社への参拝客など、多くの人に親しまれている山岳です。地元の方々にとっても昔からそこにある身近な存在となっています。

こちらの写真を見ると、山の中腹が削られて山肌が見えていることが伝わるでしょうか?実はこれ、石灰岩を採掘するため山を削り、その結果このような形状になっています。先ほど運搬されていた石はここから削られているのです。

古くから信仰の対象になっていた武甲山。
承知の上、信仰の対象を削り産業として生活する秩父の人たち。
様々な葛藤があるというお話でした。

この世界は質量保存の法則に従う

武甲山の採掘によって得られた石灰石はセメントの原料で、セメントはコンクリートやモルタルなどの建築材料となります。つまりは、武甲山は建築材料の元となっているといえます。

ここで採掘された石灰石は焼かれて、東京に運ばれるそうです。東京で使われる建築材料が、秩父で採掘されている。

ここで少し話が飛びます。秩父でこの事実を知り、私の最近の体験と繋がりました。先日茨城県の海岸に訪れた際に風力発電所をみて、近しい感覚を味わいました。


その感覚を言葉にすると…
どこで使われているものは、必ずどこかで生み出されている。

無限なんてものはない。物事は質量保存の法則に従い、なにかが生まれた時には何かが元になっているのです。人はなにかの代償をなしに、何も得ることはできない。

風力発電所であれば、電力を生み出す元となるのは、風車が建てられた土地・自然の力・管理する機関や人。消費するのは人が生活する場所。

今回の話でいえば、建築材料のもととなるのは、採掘場(武甲山含む)、恩恵を受けるのは別の土地の人。(現地の場合もあるかもしれませんが)

郊外の山を削って、都会の建物になる。

自然とは

私自身は、山を削って都会の建物になる、と考えると、なんだか悲しみがこみ上げてきました。それと同時に、これは自然の摂理である、という理解もありました。

では「自然」とは、なにか?

日常生活で使う自然という言葉をあげてみます。
・自然体
・自然が多いところに行きたい
・もっと自然にポーズをとってみて

など。自然の語源を辿ると「あるがままの状態」と表現されます。

この世界における、あるがままとは。ただ今まで起きてきたことが自然なのではないか?人類が技術革新を進めてきたこと、木を切り山を削ってきたこと、滅びゆく絶滅危惧種でさえ、自然の循環の一部なのではないか?と捉えられました。

だからこうした
「人の営み」も自然なのだと、思いました。
破壊を含む自然は心が痛みますが…

人の営み、と考えた時に浮かんだのが、落合陽一さんの言葉。

アートは発見があるもの、ルールがないもの、という流れで出てきた言葉です。個人的な解釈にはなりますが「人ぞれぞれに日常があり、その人にとっての当たり前が他者にとっての当たり前ではない。それが他者にとっての発見に繋がる」ということなのかな、と。

自然は、人の営みを含む。
人の営みはアートである。
ならば、自然はアートである。

様々な存在や個体(生命体)が好きに主観的に動き回った結果、自然が生まれる。それは生き延びるための最適解の集合であり、変化するものであると受け止めました。

武甲山の起源とメタ認知

秩父に訪れた帰り道、武甲山の採掘に関する情報を調べていました。実際にこれは何年単位で続いてることなのか?人々はどのように感じているのか…。

調べるなかでよく見かけたワードが

「かわいそう」
「複雑な気持ち」
「武甲山はなくなるのでは?」


という言葉でした。私も複雑な想いがあり、共感するところがありました。それと同時に、私も含めこれらは非常に主観的なコメントであると思いました。(個人の感想は自由だよね、という想いをこめて)

ここで結構私独自の視点から、武甲山を見つめてみたいと思います。

武甲山、その起源は?

私がメタ認知(抽象的視点)で武甲山をとらえると
「太古の昔、海底火山の活動が落ち着いたところでサンゴ礁が発生し、石灰岩となって地表に出てきた地層」です。(見る人により不快にさせてしまっていたら、ごめんなさい)

武甲山と名前をつけたのは、人間。
信仰の対象としたのも、人間。
神殺しと心を痛めるのも、人間。

昔からある存在を大切にすることはとても人間的で尊いと思います。これらの発言は、採掘を肯定するでも、否定するものでもありません。ただ循環している。そして今まであったものを守るのか、消費するのか、それは循環であるのか?という葛藤が、人々にはある。

ある角度から見たら私の意見は冷たいものかもしれないのですが、ただそこにある。それを自然の一部である人間がどう使うのか?というところだと思いました。利己的ではなく利他的に考える必要性も感じます。
これは武甲山のみならず、他の生物種の保存や環境問題にも関わります。個人的な見解にはなりますが、人類が世界の主であるかのように振る舞うことは傲りだと考えています。(運命思考的視点)

今の時代に大切なこと

武甲山の鉱業について述べたことは、私が事業者に直接聞いた話ではなく、秩父の方から伝え聞いたこと・オンラインで調べたものです。私は秩父に住んでいるわけではないし、訪れたのも2度目で、ただ浅く知っただけでこの場で伝えることしかできません。薄っぺらくなってしまうかもしれない、とも思いながら、目に焼き付いた白い山肌が衝撃的だったので、綴りました。

私には何か劇的に変化を起こせることはない。
けれど、感じ取ったことを伝えることはできる。

人の世には常になにかしらの葛藤や課題がありました。
人生100年の中でその全てを知り尽くすことは難しいですが、まずは身近なところから関わることはできるはず。

関りの結果行動を起こし、なにかが変わる。それは直接的にその場所には影響しなくても、その人の身の回りからよくなり、結果別の場所に波及するかもしれない。
まずは「知ること」。それを伝えたい想いでした。

現在秩父は観光業にも力を入れており今後も色々と新しいことが起きてくると思います。比較的近いエリアなので、また訪れたいですし、なにか活動をしようと練り練り中。

起きていることを、自分事にして、問い、日常に持ち帰ろう。


2024.3.6 あとがき
思いのほか、自分の中で『自然』という言葉を重視していることに気付けました。

自然体であること。
自然と共にいきること。
ただそうであること。

「そのままでいい」という言葉を聞くと涙腺が緩む体質なのですが、これもまた自然という言葉と紐づいている気がします。

自分にとって響く言葉は、なにか。ただの語感だけでなく、それに込められた思いはなんなのか?深掘りしていくと、新たな発見があるかもしれません。

収集心の情報提供として、こちらが近頃とても刺さったので置いておきます。(ストレングスファインダーの資質。おかゆの1位)

それでは、最後までお読みいただきありがとうございました。
またお会いしましょう。



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