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りんごはりんごと呼ばれ続けてりんごになる。

昔、油絵を習っていた時のこと。お題としてりんご一個を描くというものがあった。丸テーブルに乗ったりんごを生徒が囲む形でスタート。まずはじっくりりんごを観察するところから始まる。形、色、光と影など描くにあたっての基本的な情報をつかむのだが、りんごをじっくりと見ているうちに、だんだんとりんごがりんごという果物ではなくて、赤い物体に変わっていった。目の前のりんごの形が変わったわけではなくて、私の頭の中がぐるぐるし始めた。

そうこうしているうちに、みんなが手を動かし始める音が聞こえて、「りんご」の絵がキャンバスに次々に再現されていく。
この物体を人は何の疑問も持たずにりんごと認識していることが急に不思議に思えてならなかった。

誰かが、この赤い物体を(実際には、赤いわけではなくて赤く見えるだけなんだけど)最初に「りんご」と呼んだわけで、その前までは「木になるあの丸くて赤いやつ」だったかもしれないし、「シャキッとした歯ごたえのあるすっぱくて甘いやつ」だったかもしれないし、「あそこの家の爺さんが好きなやつ」だったかもしれない。でも、一旦、「りんご」という名前を与えられることによって、多くの人が長い間ずっとこれはりんごだと認識し続けることによって、りんごはりんごになってしまった。

ちなみに、語源由来辞典によると、「檎」という漢字は「禽」のことで鳥を意味する。鳥は赤い実を食べることが多く、林の中に甘い果実を狙って鳥が集まったから、だそうです。「梨」でも「蜜柑」でもなくて、考えてつけられた名前なんですね。

たとえば、キュビズムの画家がりんごを描いたら、キューブ状に分解されたりんごになり、タイトルがないともはや何を描いたのかが分からなかったりする。そうなると、人は、自分が認識しているりんごがそこにないと混乱し始める。タイトルにりんごと記載されていても、どうしてこれがりんごなんだ、何を描いてるのか分からない、となる。

りんごにとっては、別に、りんごと呼ばれることについては何の感慨もないし、そもそも名前をつけられるつもりもないだろうし、勝手につけられた名前だし、どうでもいいし、とか思っていたら面白いんだけれど。

もちろん、名前をつけることは、そのものを大切にしたり、愛情を注いだりすることでもあるからいいんだけれど、人間が便宜上、区別したり話が通じるためにつけた名前以前にも存在していて、人の意志が入らない世界ってどんなだったんだろうと想像が飛んでいく。
いろんな意味づけのない世界。

りんごの絵はうまく描けませんでした。


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