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筑豊炭田、サキヤマとアトヤマ、人類の敵

昨年末に私用で福岡を訪ねた際、空いた時間を使って、筑豊地区にある田川市石炭・歴史博物館と、直方市("のおがたし"と読む)石炭記念館へと足を運んだ。
福岡県の北西部に位置する筑豊地区は、かつて日本を代表する炭田として栄え、繁盛期には国内の石炭採掘量の大半を占めていた。この地で採掘された石炭は、主に北九州の八幡製鉄所へと運ばれ、日本の近代化に不可欠な役割を果たした。

石炭採掘全盛期の筑豊地区のボタ山(忠隈のボタ山)

館内に展示された豊富な資料を前にして、この筑豊炭田で働いた炭鉱夫の方々の生活に思いを馳せずにはいられなかった。
彼らは毎日休みなく、ただ人を早く運ぶことだけを考えて設計された粗末なエレベーターに載せられ、ほとんど自由落下に近いスピードで地下300mに広がる暗い穴の中に潜った。そのあまりの恐怖に耐えきれず、悲鳴をあげたり失禁したりする者も少なくなかったという(天空の城ラピュタの冒頭で、蒸気エンジンで駆動するエレベーターの操作を初めて任されたパズーが緊張しているのは、それが操作を少しでも誤れば乗員の命が危険にさらされるほど危険で粗末なものであるため)。

そうして彼らがたどり着いた地の底は、暗く、蒸し暑く、息苦しく、まるで地獄のような場所だった。その地獄を唯一照らすのは、カンテラの弱く柔らかな光だった。そのオレンジ色の微かな輝きは、不気味な静寂に包まれた深淵を照らし出すと同時に、本来光なき坑道の内壁に影を描いた。内壁にちらちらと揺らめく黒い影は、まるで鎌をかまえた死神の姿のようだった。
岩盤がいつ崩落するとも知れぬ極限の緊張感の中で彼らに許されたのは、ただ五感を研ぎ澄ませることだけだった。時間の感覚が失われ、外界から完全に隔絶された空間で、炭鉱夫たちは自らの生と死を刻一刻と感じながら石炭を掘り続けた。岩盤がきしむ音や落ちる小石の音にいち早く気付けるよう、叫び出したい気持ちを押し殺して。
多くの炭鉱夫がその肌に刺青を彫り込んでいたことは、彼らの仕事が常に死と隣り合わせだったことと無関係ではない。その身体に刻み込まれた龍や仏の模様は、死の影を遠ざける魔除けであり、明日の訪れに対する祈りだった。

元炭鉱労働者であり、炭鉱画家である山本作兵衛さんの絵。彼は「自分の絵は記憶しているまま真実を描いているけれど、ひとつだけ嘘がある。炭坑坑道の中は暗くて、絵に描いたように明るく見えることはない。」と言った


炭鉱の仕事は男だけのものではなかった。炭鉱で働く女性たちはアトヤマ(後山)と称され、男性(サキヤマ, 先山)が坑内で掘り出した石炭を地上まで運び出すのは彼女たちの役割だった。彼女たちは、スラと呼ばれるソリのような運搬具に数十キロもの石炭を積みこみ、それを頭や肩に紐で結びつけ、四つん這いになって炭鉱の外へと運び出した。作業着は腰巻きひとつといった粗末なものであり、ほとんど裸に近い状態で過酷な作業に従事していた。
炭塵と汗で真っ黒に汚れた体で家に帰ると、彼女たちは主婦としての責任に直面し、炊事、洗濯、子供の世話といった家事に追われた。一方で、男たちは坑道から上がるとすぐに汗と炭塵を洗い落とし、家事に忙殺される妻を横目に、刺青を剥き出しにして酒に浸った。当時の社会には、男が家事を手伝うという考え方自体がほとんど存在しなかった。アトヤマとして炭鉱で働く女性たちは、極めて厳しい環境を生き抜いた強靭な人々だった。

四つん這いになってスラを引く女性の模型

近年、地球温暖化と児童労働の問題を背景に、石炭はしばしば批判の対象となっている。しかし、20世紀以降に石炭が人類にもたらした利益と、その採掘に関わった人々の貢献を忘れてはならない。石炭のおかげで私たちの生活が豊かになったことは疑いようがない。肥料の大量生産が可能となり、飢餓は減った。電気を安価に作り出すことができるようになり、生活はより豊かになった。
トヨタの豊田章男会長は社長時代、「敵は炭素であり、内燃機関ではない」と言った。これはさらに深掘れば、「敵は気候変動であり、炭素ではない」と言えると思う。2つの博物館の展示を鑑賞しながら、そんなことを考えた。

直方市石炭記念館

直方市石炭記念館を後にした僕は、まとまらない感情を整理するために、考え事をしながら記念館の裏手にひっそりと広がる森へと歩を進めた。その明るくも静謐な森の中で、足元に広がる土を手に掬い上げてみると、さらりとした細かい砂の中に黒い粒が混じっていた。
この大地のはるか底に広大な炭田が今もなお眠っているということを、その黒い粒たちは静かに僕に告げていた。

砂に混じる石炭の粒

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