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良い記事は向うからやってくる

あくまでも主観的なものの言い方になってしまうが、ウェブ上にある記事について、まじめに読むか読むまいかはパッと見の肌感でわかってしまうのだけど、

しかしハッキリしているのが、現在あるウェブの記事、や”つぶやき”の多くが、SEO業界の既成の規範に忠実=紋切り型、であることは明白で、もうちょっと踏み込んで言うと、2010年代までGoogleで有効だった方法論との濃密な類似性を感じさせる。

直截にいって、以前の方法論を現在の文脈にうまく適応させ、カテゴリーをアップデートしたうえで、今でいうところの、「X」でうまく実演している者が、成功する・しやすい。少なくとも私にはそう見える。

これは興味深い現象であると同時に、懸念も提起している。つまり、かつてのgoogle時代と同じような弊害が、SNSの中でも、すでにして顕れ始めているのだ。

ひとたび方法論が確立されたらあとは食い荒らされ、最期には彼ら ー とあえて表記するが、すらもパージされ、いよいよ個人の参入不可能な領域として、”荒廃”化する。それは、現在のgoogleの、惨憺たるありさまを見れば一目瞭然だ。

かのように、システムを悪用する人々(彼らの多くはハイスペ勢である)と、純粋なクリエイターとの間には、うめようがない溝がある。バーチャル空間では、自然界にあるような精緻な生態系はのぞむべくもない。

では、noteのようなプラットフォームはどうだろうか?
やはり、というべきか(大人の事情もあろうが)さまざまな株式操作的な作為が鼻につく。高評価の記事でも、せいぜい「納得!」あるいは「あっそ」で終わる、というのが正直なところで、「ええーっ!?」と思わせてくれるような強烈な記事にお目にかかることは稀だ。

繰り返すが、これは主にストラクチャーの問題が大きい。そこそこ良い記事、そこそこよい企画には、わりと頻繁に出会うわけだ。とはいえ、本当に優れた文章を探索するのは、困難だったりする。

とはいえ、鬼バズりした記事や、各界内で話題に上がっているような記事は、やはり、本当に卓越した文章であることが多い。裏を返せば、プラットフォームの殻を突き破るような力がないと良い文章とは言えない、ということなのかもしれない。

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