花村

わたしの一族が、いつごろから”あの家”に仕えるようになったのか、知らない。なんでも、祖父はとうにも満たない子供のときから丁稚奉公していたらしい。戦時は特別年少兵として海軍にいった。戦役を終えてすぐ、軍のツテで乗り込んだ捕鯨船の上で約10年間を過ごし、大金を稼いだあと、帰郷してまたあの家に仕えなおして頭角を現した。憲兵や兵隊たちも、金をもっている人間にはやさしい。金にものをいわせて結婚したのが、あの家の者の血筋をひく祖母である。長男は町長、その孫、つまりわたしの従兄は陸軍学校にいった。わたしはこの未来の戦車隊隊長には、ついぞおめにかかったことがない。ウチはといえば、一族のうちで宗家の恩寵に与る者たちとは、まったく疎遠だった。父はよくこの立派な叔父上のことを「どうしようもない役立たず」と罵っていたが、兄上から見れば、この男こそ、その名に恥じぬ真性の”うつけ”であっただろう。父は、あの時代特有の気分の中にしか生きられない人間だった。片田舎の満天の星空の下、納屋のなかで式典の英雄に想いを馳せ、ガキっぽい理想主義に燃え、長じて後、反体制運動にのめり込み、結局は不穏分子としてお国に睨まれてしまった。

わたしがまだ幼いころ、母と一緒にどこかへ雲隠れし、それから何のいきがかり上、そうなってしまったのか、いったい何を引き受けてしまったのか知らないが、支那へ移った。当時、戦争により排日気分が高まるなかで、膨大な資本の投下によって創設され、巨大化していく植民地の工場と炭鉱だけが、父のような類いの人材を必要としていたのだ。ふるさとにとり残された者たちはつねに金銭問題に悩まされた。父はたよりにならなかった。景気がよいときに、きまぐれに金を送ってくるときがあったが、それはたまたまコウノトリが運んできただけのことであって、本人の辞書に禁欲という文字はなかった。一家(わたしの叔母の家)はしょっちゅう、明日の飯も食べられるかわからないという羽目に陥った。そのたびにわたしは市場の野菜やら果物やらのネット詰めに駆り出された。中学にあがった頃、家の窮状を訴えるために、生涯に一度だけ、父に手紙を書いたことがあるが、なにやら立派な文句のならんだ手紙が返ってきただけで、それきりであった。

二十歳の夏に、その父が死んだ。見事なくらいにあっけなく逝ってしまった。とうの昔に離縁して、再婚していた母はきつい人だった。離縁した元夫の弔いなどするはずもなく、わたしが喪主にならざるをえなかった。香港へ渡り、教会でひっそりと、ひとりだけの葬儀を終えた。まもなくして母に会った。その住まいである花園の建物は、じぶんには縁のない、立派な洋式のお屋敷だった。母の再婚相手は戦時下の貿易で成功をおさめ、青果卸売の会社の社長として名士に数えられていた。母は、煙草を吸いながら、けだし彼女の空想の中ではまだ赤ん坊の姿のままであったはずの、わたしをじっとみていた。その視線がなんともいえず力をもって、こちらを射すくめた。殺気ではない。そうではなく、ひらきなおっていた。確実にくるであろう息子の非難を見据え、身構えているというよりも「お前の考えは全て分かっている。わたしはこういう人間だ。さあ、罵れ」と語っているように見えた。結局、会話らしい会話も成り立たず、辛い思いのまま立ち去った。

父は遺言を残していた。わたしはただ一人の息子だ。相続人として弁護士事務所に行かなければならなかった。その日の朝、いったん盛装したが、鏡で見ると、なんだか無性におかしくなって、やめてしまった。昼過ぎ、シャツとタイの普段着のまま事務所にはいると弁護士はすぐ目の前にいた。刈り上げたうえに、びっちりポマードで仕上げた七三分けの中年男だった。綴込表紙のついた書類がどっかりとのっかってる机に座っていて、わたしをみて微笑した。それから書類の上に肘をついて指の先をこすりながら、しばらく興味深げにこちらをみつめていたが、「では」と、役者みたいに異様に明晰な発声で話しはじめた(ここでようやく彼が日本人だとわかり、ホッとした)「他の方はもういらっしゃらないですか?」「他?」自分以外にも訪問者がいるようだ。”彼”は控室のソファに座っていた。

彼は、無表情だった。肌は褐色で、濃紺の長袍を着ていた。窓からさしこんだ陽のひかりに照らされたその顔が、部屋の風景と溶けていた。わたしはへたくそなマンダリンで話しかけた。彼は予期したほど驚いた様子も見せず、あたかもそれがあたりまえであるかのように、会話に応じた。がしかし、まともに目をあわせようとはしなかった。目の前に立っているのは、まさしく、もうひとりの自分だった。かなり日焼けしているが、顔、背格好。みなり以外は、完全に同じ。彼は、わたしのことを「あなた」と呼んだ。たんなる関心対象ということを超えている表現である。彼は、先日、弁護士がきて、裁判沙汰にならないように、あらかじめ書類にサインをするように求められたが、わからないといって、おいかえしたのだと言った。父が遺した、すべての動産と不動産、ちいさな土地、自由公債、預金がその子息たちにまとめて遺贈され、遺言執行人が管理し、子息たちが話し合って決める方法で分配すべし...

「ぼくは法律のことはぜんぜんわからないけれど、明日、くにへ帰る予定なので、できればすぐに遺産の半分をもらって、自分の仕事に投資してしまいたいのです。当てがあるのです」「ぜんぶ?」「ええ」と彼はきっぱり即答した。「ああ、きみが最善だと思っていることをやればいい」とわたしはかろうじてそうこたえた。はじめて彼は微笑んで、わたしに手を差しのべた。「ぼくは、リュウです」

わたしたちは昨晩、ホテルの一室でずっとのんでいた。わたしが寝てしまったあとも、彼はずっと起きていたようだ。めをさますと部屋には誰もいなかった。彼は一階リビングでひとり、窓から、夜明けの金属的な色の空をながめていた。わたしが起きてくるのをまっていてくれたのだ。「またせてしまったね。腹が減ったろ?」「いいのですよ。さっきまでずっと、街の景色を眺めていました」彼は小麦色の高校球児のように健康的で徹夜をしたとは思えないほど精気に充ちていた。共に朝食をともにするために、街にでかけていった。彼の案内で知らない街路を歩いていった。坂道をのぼりきった先に、教会のまっしろな大きな門があり、さらに少し脇道に入れば所狭しと雑居ビルが立ち並ぶ。古い鉄骨造りの商店街、頭上にはさまざまな看板、鳥かごのところで叫んでいる謎のシナ民族、ねばついた魚の露営店などでいっぱいだ。日が暮れるころには夜市になる場所である。

「批鮮犮鸡蛋」と書かれた看板が目にはいり、卵を二つ買った。彼は不思議そうに見つめていたが、わたしはあえて黙っていた。その卵屋のちょうどはす向かいに角打ちのできる商店があったので入った。出された酒で卵酒をつくった。「なんです?これは」「これは」と、言いかけた言葉もぐっと飲み干した。彼にも同じものをつくってやった。彼は卵の黄身も破らずに一気飲みしたが、すぐに吐いてしまった。涙ぐみながら「これはひどい。まるで蛇になったような気分だ」「酒で口がすっぱくなった日にはこれをやるんだ」「店をでるまえにいっぺん便所にいってみてごらんなさいよ」彼の口から飛び出した新鮮な卵黄が、わたしたちをじっと見つめていた。ふたりは同時に笑った。

まだ酔いが残ったまま人混みをかきわけて小さな公園を通りぬけて、おめあての食堂に入った。わたしは茶と一緒にのみほしたローストチキンの他は喉を通らなかった。そんなわたしにめもくれず、彼ははまるで宴会で羽目を外しているかのように、何品もの料理を食う。わたしにみせつけるかのように。きれいさっぱり平らげてみせた。じぶんと同じ姿をした兄弟にみずからの血の濃さを誇示しているのだと思わずにはいられなかった。デザートを注文したあとそれをまっているあいだに、もう一杯、茶をのんでから、わたしはジャケットの内ポケットから、分厚い封筒をとり出した。「それ、うまく使ってあげますよ」といって、彼は中に入っている札をろくに数えもせずにポケットにしまいこんだ。「わたしの名で預金しておけばそんなに後悔しなくてすむのではないかな?」彼は聞こえないふりをして「汕頭で今年の冬をこしたら、あなたに1万円。どうです?」「好きにしてくれ。わたしは金儲けの事はわからない。給金以上の金のことはまったくわからない。それに、むこうの家族のことですっかり金を使い果たしてしまいそうだ。こちらとちがって、日本はなにをするにもむずかしい。結婚も子育てもね。なにより、死ぬのも、金がいる」「なくなったのですか?あちらの親族が。どれくらいお金がかかりますか?ぼくがその金を出しますよ」わたしは、そういうことについて話したくないというふうに頭を横にふった。

彼は首から紐で結んだペンダントをぶらさげていた。銅色に煤けた文字で皇紀が記されてある。「父の形見です。祖父から受け継いだと聞きました」「じいさん、見たことないだろう?」「ええ」「いつも酔っぱらっていたよ。庭で豆まきしたり。休日に道端で日がな酒を飲んでは、草むらに寝転んでいたっけ。田舎だよ」といって、黙り込んだ。急に話が終わってしまうと、彼の目に失望の色が浮かんだ。語るべきことを語ろうとしないわたしの意図に気づいたようだった。そのまま、ほほえむのをやめてしまった。だが、なにを語ればいい?…わたしが知っているのは祖国以前の坂道や草むらだけだ。彼は、ずっと心の中にいた「探している、兄さん」の魂を探しあぐねているようだった。しかし、わたしにはどうすることもできない。だれがこの少年の魂を静められるというのか。

すこしのあいだ、壁によりかかって家族のことを考えていた。窓から見える風景には、生気があり、人々が繁忙な仕事に追われ、男が赤茶けた自転車で荷物を運んでいる。街上の飾り物屋の店頭を見て、祭りが数日後に迫っていることに気づいた。公園からきこえる子供たちの声、やさしい声。ヒトの埋もれた苦悩がこめられたような、薄汚れた壁から、目と鼻の先にある公園。その声を聞いていると、故郷のことを思い出すが、今の自分の(この、まったくもって奇妙な)姿を見てほしいと思わない。たとえあなたたちと、この異国の地で会うことができたとしても、わたしは決してそれをのぞまないだろう。

彼がどんなやり口で儲けているのかけんとうもつかない。彼の話を聞いていると、まるで霞を食う様だった。ただ、どうやら、今あそこでこういう出来事がおきているだとか、あの男が有望だとか、人と話をしてそれを金に換えているらしかった。今は汕頭市にいるが、もしどこか惹かれる場所を見つけたら、さっさと移って、運をつかむまでそこで過ごす。アジアの岸辺の喧騒はまったくキチガイ沙汰だ。戦火のさなかでこそ、ショーバイを大々的におこなわしむることが大なる効果あるものとなるのである。周囲の人々の話を聞いてみると、さてどうしたものか、ようやく息が出来る想いなのだと言う。彼らは長い間、蒋介石の悪政をひそかに憎んでいたのだ。物が増え、ビジネスが起こり、皆なエクスチェンジが行われるたびに、記録破りの売上高となる。商売人どもの借金も記録破りだ。みるからに豪勢な着物をきた人たちが、持ち物をだすにだせずに拳を上げて右往左往している。「どうやってそんな商売を尋常にまわすのかね」「あらゆる可能性があります。物も、機械も、どんどん値が高くなるのです。今注目しているのはセメントの新しい工法ですね。材料の見分け方や、工程の計算方法、補強手段。ニュー・ヤング・シティの道路や泉水や地下室、暗梁をつくるにはどうすればいいか。この国のものどもは皆、口をそろえて、そんなもんはたいしたことはないって言うのですがね。なに、フランス五千万が言ってることなのですからね。間違っているはずがない」

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