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「picture」の混乱、「写真」の罠

今回の記事では、写真を撮っていてぼんやりと考えていた、
「picture」「写真」「photograph」という、
写真を表す言葉をめぐって、2つの話を書いていきます。

「picture」の混乱

突然ですが、中学校に入ると、英語を習い始めますよね。
いまは小学校でも英会話のクラスがあったり、メジャーな習いごとになっていますが、ぼくが育った時代(1993年に中学校入学)は、中学生になって初めて英語を知る、というのが割と普通でした。

違う言語を学ぶのですから、難しいというか、勉強の仕方すらよくわからなかったように記憶しています。果たしてこれは暗記科目なのか?

さてここで質問です。みなさんは英語の勉強のどこでつまずきましたか?

ぼくはいまだに覚えているのですが、
単語で、picture=絵・写真という訳し方でした。

絵と写真って違うものやん。
英語圏だとなんで同じ言葉で表すの?

その疑問は解決しないまま、次から次から押し寄せる英数理国社・英数理国社に、いつの間にか忘れてしまっていました。ふと、その疑問のことを思い出したのは、大学生になって、写真のサークルに入って活動していた頃でした。

欧米の写真家の作品や写真集を見ているとすぐ気づくのですが、日本の写真家とはけっこう傾向が違います。

すごく単純に書くと、

欧米の写真家の作品は、絵画っぽいものが多く、
日本の写真家の作品は、写真っぽいものが多い。

ん? 写真なのに絵画的?写真的?

ということで、絵画的・写真的、の意味の違いについて、その実際のもの形式ではなく、描かれている・写っている内容にフォーカスして書き出してみます。

[絵画的]
・構図のルールが厳密(かっちりしている)
・画面の中の秩序がある(画面内のベクトルの均衡)
・色合いや配置や動作のタイミングを作者がコントロールしている
・見栄えが分かりやすい
[写真的]
・絵画的な画面のルール外に出たがる(かっちりしてない)
・画面内はもっと混沌であり不可解
・実際に起きていることを画面の中で受容している
・一見見栄えのしないものでも写真になることで独特な価値観を得られる

このようになりました。

上の分類で考えると、絵画と写真は4つのカテゴリーに分けられます。

絵画的な絵画
絵画的な写真
写真的な絵画
写真的な写真

さきほど書いた欧米の写真は「絵画的な写真」、日本の写真は「写真的な写真」とカテゴライズされます(あくまで傾向の話です)。

ここで分かりました。ぼくは誤解していたのです。
ぼくの誤解では、pictureは、以下の太字のことを指していました。

絵画的な絵画
絵画的な写真
写真的な絵画
写真的な写真

でも、以下のように考えると、pictureの正体が見えてきやすいです。

絵画的な絵画
絵画的な写真
写真的な絵画
写真的な写真

つまり、picture=絵・写真とは、picture=絵画的な状態になっているもの(それが絵でも写真でも構わない)の省略形なんじゃないのかな、ということです。

よく、「絵になる」「絵にならない」という言い方をしますが、このとき使っている「絵」こそが、pictureの正体なんじゃないでしょうか。

全ての作品がこの4つにカテゴライズされるわけではないですが、こうすることで「picture=絵・写真」と教えられた中学生のぼくの混乱はいったん解決しました。

余談ですが、「インスタ映え」「フォトジェニック」など、写真関係の流行語も、ここでいうところの写真的ではなく、絵画的なワードと括ると理解に近づけそうです。



「写真」の罠

「写真」という言葉がもたらす誤解について。

「写真」は「真を写す」と書きますよね。

写されている内容は真実、現実であると。そこに写っているものは偽りなくそこにそのようにあったと。ぼくはその、「写真」という言葉の持つ印象が、写真に写っている被写体の解釈を限定させ、写真を見る側の「見方」の自由を少し奪っているような気がしています。

確かにカメラは目の前の姿を優れて写し取りますが、それはあくまで一面であって瞬間であって、全体、全景ではありません。

写真に撮るということは、フレームの外と内を分ける境界線を決め、写される時間と写されない時間を選ぶ行為です。

つまり、1枚の写真は、撮影された瞬間に、その元となった被写体、現実から切り離されて、被写体が持っている文脈から独立して歩き始めます。

それなのに、「真を写す」といわれることで、あたかもその状況全体を代表するかのように強要されます。つまり、被写体の文脈をそのままその写真が表していると。

マスコミが誰かの発言のほんの一部だけを拡大することで全体の意味を隠してしまう悪意に、とても近い行為です。

本来の現実(被写体)は、写されていない、(前項に倣うと)「絵にならない」瞬間の集積なはずです。

写真とは、写真を撮る側が、写真に撮られる側を、ノーガードな無防備状態で一方的に定義してしまうのです。(写真の暴力性は、こういうところにも隠れていると思いますがここでは詳しくは触れません)

そして最重要なのが、「写真」という言葉がその暴力性をともすれば肯定、補強しています。

写真と「写真」という言葉がどれだけ暴力性を秘めているのかは、写真を撮ることに携わる人間としては、しっかりと意識しておきたいところです。

では写真には、加害者の一方的な悦楽のような魅力しかないのでしょうか。ぼくが写真を撮っているときに「どう写るのかを知るのがなんだか楽しい」と感じることも、これに含まれているのでしょうか。

写真の面白さって、もっと外から来るものを受け入れる面白さだと思うんですよね。結果のわからない化学の実験のような。

写真を構成するのは、
・写したもの
・写ってくれたもの
・写ったもの  の3つです。

さきほどお話しした暴力性はこのうち「写したもの」と深い関係性があります。

では残りの2つ「写ってくれたもの」「写ったもの」はどうでしょうか。
言葉のニュアンスは違いますが、両者に共通しているのは、撮影者の意図にはないものが写っている、です。

ぼくはこの、撮影者の作為を超えて写るものが、なんだか化学の実験みたいでとても楽しい、と感じています。

自分には見えていなかった人物の一面や、写真に撮ってみて初めて気づけた街の表情、あるいは写し取るという行為そのものの気持ち良さ。

そういう撮影者の、ある種の化学者的な行為のことを、なんと言えばいいのだろうか。その時、真実や現実をを写し取るとは考えていないのだと思います。ただ、目の前の光や形がどう写るのかが楽しいだけです。

英語では、写真の意味を表すpicture以外の語に「photograph」があります。

photographは「photo-graph」と2語に分解されます。

photo-graphphoto=光graph=描くphotograph=光で描く名詞的にいうと、光で描かれたもの、光で描くこと

そう、「photograph」の言葉には撮影者だけが写真を構成しているわけではないこと、写真の持つ化学的な楽しさ、こういうものがしっかりと詰まっています。

とても素敵な言葉だと思います。
ぼくには、「photograph」のほうが写真の意味として、しっくりきます。

筆と絵の具で描くのが絵画、
光を使って描くのが写真、という対比としても捉えることができます。

そう考えると、写真という行為には、
pictureとphotograph、両方の状態が常に混ざっているのだと思います。

優れて、歴史の風化に耐えている写真作品は、picture的、photograph的な要素が混じり合ったことで一段高いところに到達した作品なのだと感じます。

* *

本稿はここまでですが、追記の形で、結論のない話を最後に足します。

冒頭でも書いたのですが、
欧米の写真家の作品は、絵画的なものが多く、
日本の写真家の作品は、写真的なものが多い。

確かに、日本の写真家は歴史的にも、スナップ写真を中心とした、偶発的、受容的な撮影を行う作家が欧米に比べて多く、主流であったといっても良いと思います。

それなのに、pictureではなく、photographに対応するような、写真を表す「写真」以外の、もう少し受容的で楽しそうな日本語が現在ないのが、なんとも不思議です。
まもなく写真2.0の時代になろうとしていますが、果たして「写真」に変わる語は現れるでしょうか。

(1930年代に、「光画」という写真同人誌がありました。まさに「photograph」の直訳とも言える語を冠し、木村伊兵衛や中山岩太など錚々たるメンバーが参加した雑誌で、写真史でも重要なポジションですが、残念ながら「光画」という言葉のほうは一般的には残りませんでした。)

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