教師の不祥事が報道されるたびに「いい時代になった」と思う

 近年、児童に嫌がらせや八つ当たりなどで鬱憤を晴らしている教育者の事案が相次いでいる。事実、東京都あきる野市で小学校教論が、特定の児童の防災ずきんに暴言を書いていたとの報道もあった。元々こういった教育者は昔からいたのだろう。私も高校の寮生活時代、特定の寮母から嫌がらせのようなものを受けていた。北海道の学校である。私がいた寮は、寮母のいる事務室から遠隔で暖房の電源が付くものだった。室内温度が20度になると自動的に電源が切れてしまうものである。そして消灯時間になると問答無用で電源が消えるのである。朝になると、起床一時間前に寮母が電源を付ける。3年の一人部屋の時、何度か私の部屋は付け忘れがあった。「あの、暖房ついてないんですけど。」事務室に行くと毎回同じ寮母がいた。また体育の時に使うジャージがなくなった際、二週間後に寮母たちが使う倉庫から出てきたことがある。結局私が勝手に騒いだことにされ、謝罪させられた。私は卒業して数年後に、この忌々しい出来事は嫌がらせだったのだと気が付いた。教育現場の質が下がったわけでもなく、蔓延っていたものが時代とともに明るみになってきただけである。


 タイトルにもある通り、私は教師の不祥事が明るみになったときは「いい時代になったな」と毎回思うのだ。なぜならそこにいた当事者以外の大人は、子どもを「守る」ことをしていたのだから。守るために警察に通報したのだろうし、本来大人とは、子どもを守る立場にあるはずだから。あの時の私はイイコちゃんだった。生徒会に所属もしていたし、家族はみな「事なかれ主義」であったから、私が我慢すれば正念場は早く切り抜けられると思っていた人間だった。(まあそんなわけはなく、結局同期に仕事を押し付けられてメンタルぶっ壊しているのだが)子どもと大人で見てみれば、弱いのは間違いなく子どもである。学校という狭い箱庭で生きてきた人間が、大人の意見に対して真向から立ち向かうのは無理がある。弱者を虐げるのは人間の性である。あの時の寮母しかりあきる野市の教論しかり、鬱憤が溜まっていたいたのだろう。だからといってやってきたことを許すつもりは全くないが、教育現場は限界なのだろう。「#教師のバトン」で現場の悲鳴を聞いたはずだ。モンスターペアレントのサンドバックになったり、プライベートもなく休日であるはずの土日は部活動の顧問で忙しく、あってないようなものである。それは生徒も同じであり、実際吹奏楽部に所属していた親友は毎日登校していた。

 「人を育てる」というものは、まず自分に余裕があることが大前提である。自分に余裕のない人間が鬱憤晴らしに「弱者」を使うのである。大半の子どもは大人におとなしく従うのだから、これ以上に適任はいないだろう。組織内不和はこうして起こる。しかし現代は発信力を持とうと思えばだれでも持てる時代である。会社のパワハラやモラハラ、圧迫面接の企業など、ひとたび投稿してしまえばあっという間に拡散され、世論も動かすことができる。投稿せずとも週刊誌に情報も流すこともできる。今回の「#教師のバトン」しかり、現場の悲鳴が明らかになったことは、大きな進歩ではないだろうか。文部科学大臣はもちろん、会社を経営される方々はぜひ若者への対応を一度考えてみてはいかがだろうか。今は「令和」であり「昭和」のままの育て方は通用しないのだから。

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