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ふくろうの森の夜と月

 十六夜のまるい月がさやかな光をなげかける晩に、少年はその子と出会った。
 
 丘のうえまで、森の小径をぬけていくと、その先に大きな洋館が建っている。邸の庭にはたくさんの花が植えられていて、夜になるとほの白い月明かりをうけて、つぼみがゆっくりと花開く。開いた花びらの中央には、小さな卵がやどっている。そのなかで眠る雛が孵るまでのあいだ、花の世話をその子はしているのだという。
 ぼくは庭師なんだ――と、月くんは言った。それから、おずおずとこんなふうにつけ加えた。
 もしよければ、花の世話を手伝ってくれないか、と。
 
 *
 
 夜には深い哀しみが満ちていて、ときに少年はたえられなくなる。埒もなく重苦しい想いばかりが次から次へと浮かぶようにやってきて、胸がしめつけられ息がくるしい。
 そうなるともう眠りは訪れず、その晩もことばにならない内側の衝動につきうごかされるようにして、一度ついた寝床から起き出したのだ。
 梅雨の季節の、ひどく蒸し暑い晩だった。輾転反側しながらねむりを求めるも、頭のなかでなにかがざわめいていて、それがわずらわしい。数字を思い浮かべて心を無にしようと努めるも、まるで徒労でしかない。
 いっかな訪れぬ眠気をもとめてあだな試みをつづけていた。
 枕辺に置いためざまし時計の立てる、かちかちという小さな音さえもひどく耳障りで、何度目かに布団を蹴飛ばしたとき、うすく開けておいた窓のすきまからカーテンのすそをゆらして、ぬるい風がとおりぬけていった。
 甘い匂いがする。そして、葉叢のざわめきのなかにまじって、ちりちりと鈴の音のようなかすかなが聞こえた。少し気が早いがどこかの家庭が風鈴でも吊るしているのだろうか。
 野良猫なのか、どこからか猫の鳴き声も聞こえた気がした。
 身を起こし窓から外をみやれば、夜半にふりだした雨はだいぶまえにあがったようで、まるい月が空に昇っている。紗のような雲がかかってはいるが、かなり明るい。
 満月の次の晩であるから、それは十六夜というのだといつだったか理科の先生が云っていた。
 朧な月が見下ろす庭には、月光が水のように満ちていて、甘い香りを放っている。かつてはきちんと手入れされていた庭も、今では雑草だらけの荒れ放題だ。枯れずに残った花が、もしかしたら咲いているのかもしれない。
 少年は階段をおりて、勝手口から外へと出た。真夜中に草ぼうぼうの庭に立ち入るのは、少し怖かったけれど、匂いに引き寄せられるようにして足が自然とそちらを向く。 
 雨を含んだ雑草にまぎれるようにして、白い光が見えた。幽かな光と、甘い香り。そちらからどこか懐かしいような匂いがただよってくる。
 近づいてみるとそれは、一輪の花だった。生まれてこのかた一度として見たことのない花だ。この世のものではないように、そこだけ別の光を纏っている。虹色を帯びた銀の花弁が月光を浴びて、鈍く輝いている。
 しゃがんで指先をそれに伸ばしてみる。すずらんのようなふくらみに触れてみると、ちりんと一つ涼やかな音が響いた。
「きれい……」
 甘やかな匂いもこの花のはなつ芳香だ。鼻腔いっぱいにその香りを嗅いでいると、頭がくらくらしてくる。でもそのいっぽうで心が凪いでいく気がするのが不思議だ。先ほどまで感じていた、ざわめきはもうどこにもない。ただ心地よさと静けさがあった。

「……ここは君のうちなのかな?」
 突然、うえから声がふってきた。びくりとして顔をあげれば、月明かりに遮られて影だけしか見えないけれど、だれか人がいる。背丈からすると、少年のようだ。
 最前まで、足音どころか気配すらなかったのに、いつのまにそこにいたんだろう。見知らぬ人間が突然自分の家の庭に現れたというのに怖さは感じない。少しばかり驚いただけのことだ。
「そうだけど、……だれ? どこからきたの?」
「それは特別な花なんだ。だれにでも見えるわけじゃない」
 質問には答えず、その子はことばをつづける。蒼めいた月光が庭を満たしていて、水のなかにひたってでもいるかのよう。溺れてしまうかのような錯覚すら覚える。
「特別……」
「そう。それにどこでも咲くわけじゃないんだ。まいったな……」
 そういって、その子は困惑を滲ませた口調で云った。
 見たことのない花だし、そもそも植物にはまったく詳しくはない。これはよほど特殊な生態をしたものなのだろうか。じっと蕾を見つめていると、風に揺すぶられたわけでもないのに、それが幽かに動いたような気がした。
 目の錯覚だろうか。植物なのに、これはいったいどういうことなのだろう。
「これ、動いてる……? そろそろ咲く、……のかな」
 そんなことがあるのかと思いながらも、不思議にうたれて少年が小声でささやくように口にすれば、目の前のその子が少年のそばにかがみ込んだ。
「開花するよ」
 その子が云うと、蕾がぱっと開いた。放射状に花びらがひらくと同時に、高く澄んだ音がなる。空気がふるえて夜空に反響した。
 鈴の音が響きわたり、淡い光ととともに藍色の空の底へと吸い込まれていく。光の筋をつけながら、天を目指して昇っていこうとしているのだ。
 残韻がどこまでも夜の底をふるわせて、体中に響きわたった。共鳴が奥深くにまでしみこんでいく。
 いつまでもそのなかに浸っていたい。静かに、秘やかに、けれど確かに、それはゆっくりと消えていった。
 空気に溶けるようにして静寂が戻っても、しばらく少年はずっとその場にたたずんでいた。ほんの少しの動きですら、静謐なこの空気を乱したくないと思ったのだ。
 震える心を持てあましたまま見下ろすと、花の中央には銀色の光をまとった小さなまるいものがあった。石のような、卵のような――。
「……わあ」
 驚きと同時に、あまりの美しさに息を吞む。よく見ればわずかに虹色がかっているようにも見えた。
 ずっとだまったままのその子に少年はおずおずとたずねてみた。
「あの、これはなんていう花なの……? こんなの見たことない」
 呆然とした様子で少年が問えば、その子がようやく口を開く。
「ふつうは、こんなところには咲かないし、蕾のまま凋れてしまうんだけど」
 少年の質問には答えず、その子がぽつりとこぼした。
「でも、このままだとすぐに死んでしまうかもしれない……」
「えっ、開花したのに? そんなのもったいないよ。こんなにきれいなのに」
 しゃがみこみ指先で花びらに触れると、どこか冷たいような感触が伝わる。
 この花が枯れてしまうところなど少しも想像したくなかった。これほど美しいものは少年は生まれて初めて見たのだ。
「特別な土じゃないとこの花は育たないんだ。それに普通は開花と同時にかえるんだ」
 かえる、と云われて少年は小首を傾げた。どこに帰るというのだろう。
 だが、特別な土でしか育たないというのは、得心がいった。そこらに咲いている花とはまるで様子が違うのだから。
「根っこごと掘り返して植え替える、というわけにはいかないの?」
 ふと思いついて、少年が問えば、その子がしずかにかぶりを振る。
「咲いた後だと無理なんだ。咲く前にどうにか元の場所に戻せればよかったんだけど……来るのが遅すぎた」
「そんなに珍しいことなの?」
 少年が問えば、彼がこくりとうなずく。 
「うん、でもここの空気ならもしかしたら……」
 そう云ってその子が四囲を見まわす。それから少年へと視線を戻し、じっと値踏みするように見つめてきた。
 少しだけ胸がどきどきする。いったいなにを云われるのだろう。
「ああ、そうか」
 少年が困惑したままその子の貌を見つめていると、なにごとかを悟ったようにその子がうなずく。
「ねえ、きみ……この花の世話ができる?」
「えっ」
 そんなことを突然いわれてもどう反応したらよいのかわからない。
「ぼくはね、庭師なんだ。もしよければ、ぼくの仕事を手伝ってくれないかな」
「でも、花のことなんてなんにもわからないよ……」
 植物を育てるのなんて、小学校のときにやらされた朝顔の観察日記くらいしか経験がない。そのことを正直に告げると、その子がむずかしくないから大丈夫、とうけあう。 
「でも……」
 心のなかには、まだ逡巡があった。けれど、自分に何かを頼んでくる人なんて、そうそうはいない。それに自分が何かをすることで、このきれいな花が枯れずにすむのなら、断るなんてまったく考えられなかった。
「わかった。やってみる」
 ためらいを振りきるように、少年は大きくうなずいた。
 
 *

 夜の庭に現れたあの子――月くんは、丘の上にある洋館に住んでいるのだという。そこの庭の手入れをする庭師なのだそうだ。
 そういえば丘の上には洋館があるという話を聞いたことがある。この町に越してきて、ふた月ほどになるけれど、まだ一度もそこへは行ったことがなかった。
 花の世話がむずかしくないというのは、確かにその通りのようだった。実のところ、世話といっても特にやることはない。
 普通、植物を育てる場合は、水やりをしたり、雑草をむしったりしなければならないと思うが、あの花はそれすら必要としないらしい。
 夜露を浴びるから大丈夫なのだという。そして、夜に咲くことからもなんとなく推測できたが、あの花は日の光ではなく代わりに月光を必要とするらしい。
 知れば知るほど、不思議の感にうたれる。
 それにあの花は昼間は姿を隠してしまうようなのだ。明るいところで様子を見ようと庭に立ち入っても、どこにあるのかまったくわからなかった。雑草が生い茂っていて、荒れ放題であるため、たとえあったとしても探すのは至難の業であるかもしれないが。
 このあたりと思う場所を探してみても、それらしきものはどこにもなかった。けれど、姿はみえなくとも、きちんと存在している。自分でもよくわからないが、確信だけはあった。存在感のようなものが不思議と漂っているのだ。
 この世界にそういうものは、きっと思うよりたくさんあるのだと思う。
 昼間は眠っているから、探しても見つからないよ、と月くんは云った。これは卵なんだ。孵るまで、動かしてはいけない。動かしてしまうと、だめになってしまうからね、とも。
 石であり、卵であるのだという。内側に卵を抱く花冠は、いってみればゆりかごあるいは、巣のようなものなのかもしれない。
 誰かが動かしたり触れたりしないように見守ること。どうやらそれが自分にできるすべてであるようだ。
 昼間は学校があるので、庭の様子を始終見はることはできないが、そもそも雑草以外に目につくものはないので、大丈夫だろう。一緒に住んでいるおばさんは夜の仕事のため、昼間はいぎたなく眠りこけているし、そちらも特に問題ないだろう。かつてはそのことにいらだちを覚えもしたが、こうなってみるとむしろ好都合かもしれないとさえ少年は思った。

 世話を始めてから数日経ったその日、昼休みのあいだにふと思い立って、図書室へと足を向けた。大判の植物図鑑と鉱物図鑑を手にして空いたテーブルの一つに座る。
 月下美人や月見草というような月にちなんだ名前の草花はあるが、あの花とは似ても似つかない。そもそも蕾のなかに卵がある花なんて、およそ存在するわけがない。
 少し調べてみてわかったが、夜に咲く花というのも思いのほか多いようだ。勝手に明るい太陽の光を燦々と浴びて、誇らしげに咲く花ばかりを想像していた。
 少年には、それはひどく不思議なもののように思われた。睡りの中、夢の褥によこたわりながら、月の光を求めて花びらを開く。その上には虹色の石が宿っていて、静かにいつか生まれる日を待っている。
 夜さりの花々はなにを思うのだろう。おかしなことを考えているのはわかっていたが、そんな想いが胸をかすめて、ぼんやりと窓辺のほうを見る。白昼のまぶしさに少しばかり目を細める。
 ここは、自分のいるべき世界じゃないのかもしれない。
 ページを開いたまま頬杖をついて物思いにふけっていると、不意に目の前の図鑑のうえに影が落ちた。
「……お前、植物に興味があるのか?」
 横合いからいきなり声をかけられて、一瞬びくりと身がすくんだ。驚いて顔を上げれば、そこにいたのは、学級委員の綿貫わたぬきという生徒だ。転校してすぐの頃、二言三言ことばを交わしたおぼえがある。
「……」
 なんと返事をしてよいのかわからず黙っていると、「あ、悪い」とばつが悪そうに綿貫が頭をかく。
「いきなり声かけられてもびっくりするよな。や、……なんかうちの母ちゃんも園芸が趣味で、いろいろ花の話をするからさ」
 親の趣味と自分とに、いったいなんの関係があるというんだろう。
「お前、転校してきて以来いつも一人でいるし、昼も購買のメロンパンとかばっかだろ」
 驚いた。
 まさかそんなふうに観察されているとは思いも寄らなかった。誰かが自分に興味を持つことはなど、およそ想像ができなかったからだ。
 ――でも……、と咄嗟に否定のことばを脳裏をかすめる。
 人には興味がない。興味をもたないほうがいい。
 幽かに期待が胸のうちに湧き上がりそうになるのを、少年はどうにか押しとどめた。きっとこいつも先生になにか云われて、そうしているだけのことだ。いい子ぶっているだけなんだ。それにこいつは学級委員なのだし。ただの義務感からそうしているに決まっている。
 そんなふうに決めつけてしまう自分に嫌気がさすと同時に、浮き上がりかけた気持ちが急速に萎えていくのを感じた。
「別に園芸に興味があるわけじゃない。ちょっと気になったことがあったから見てただけだ」
 そっけなく少年が言い放つと、綿貫がおや? という顔をする。
「ふーん、お前そんな顔もできるんだな。いっつも無表情っていうか、なんにも興味なさそうなのにな」
「は?」
 こいつはいきなり何を云い出すのだろう。そんなふうに思われていたのもいささか心外だ。
 戸惑い反応に困っていると、綿貫が鉱物図鑑に目を留め、ページをめくる。
「俺、こういうのは好き。石ってきれいだよな。動物とか植物とかと違って、生きているわけじゃないのに、なんか見てるとすごくわくわくする。……いや、でも生きてるのか? なんか、うまく云えんけど……、こうなんていうか地球の奥底で眠っていたものが、ふとした拍子に目覚めて外に出てくる……みたいな感じ」
 しきりに首をひねりながら、たどたどしく綿貫がことばを紡ぐ。妙に熱がこもっているような気がするあたり、よほど好きなのだろうか。
 でもなんとなく彼の云うことは、理解できるような気がした。月明かりで花開く、石をうちに抱く花。卵だという石。
 闇夜に蒼い光をまとって、浮かびあがるそれに想いを馳せ、小さくこくりとうなずけば、綿貫が意外そうに目をしばたたいた。
 それから、いいことを思いついたとばかりに、にかりと笑う。
「そうだ。放課後、俺んちこねえ? うちにさ、すげーでかい琥珀があんだけど、特別にお前にだけ見せてやるよ」
 突然の誘いに少年は困惑した。まさか自分を誘う人間がいるとは思いも寄らない。
 けれど――。
 一人がいいのに、なのにどうして。
「……でも」
「遠慮すんな。誰にでもってわけじゃないんだ。というか、ほかの奴らは石なんて動かないし、生きてるわけじゃないし反応もないし、つまんねーとしか云わんから、そもそも話にならん」
 どう返事をしたらよいか逡巡していると、昼休み終了のベルが鳴った。教室へ戻らなければならない。
「あ、もう時間か。じゃ、また後でな」 
「あ、ちょっと」
 承諾したわけでもないのに、そう告げて綿貫が一足先に図書室を後にする。慌てて拡げたままの図鑑をもとの場所に戻し、少年も教室へと足早に向かう。
 焦りばかりでなく、ひどく複雑な思いが胸に満ちて、心のなかが乱れていた。けれども、それはまったく嫌な感じではない。先ほどとっさに打ち消した浮き立つような気持ちが湧き上がるのを、少年は否定することができなかった。
 

「ほら、これ。すごくない?」
 約束どおり、綿貫に自宅へと連れてこられた少年は、そのことばと同時に見せられた石に大きく目を見開いた。 
「うわ……すごい」
 感嘆のことばが自然と口をつく。
 拳ほどもある大きな琥珀が天鵞絨びろうどの張られた筺のなかにおさまっている。よく見ると、そのなかになにかがいるのがわかった。羽の形に嘴がついている。卵のなかに眠る雛を、少年は連想した。
「これ……、鳥なの……?」
 信じられない想いに、おそるおそる問えば、綿貫が大きく頷く。
「ほんとびっくりするよな。蟻とかの小さな虫がはいった琥珀はよくあるみたいだけど、鳥なんてふつうありえないと思うよな」
「これ、……さわってみてもいい?」
「いいぞ」
 そっとそれをつかみ、手のひらのうえに載せてみる。ひんやりとしているかと思いきや、意外とそうでもない。
 ずっしりした重みに、琥珀色の海をただよう鳥の姿を思った。これは命の重みなのだろうか。光に透かして見ると、その鳥は目を閉じて、まるでまどろんでいるかのようだ。
 この鳥は、琥珀の海を漂いながら、いったい何を夢見ているのだろう。夢のなかをたゆたいながら、いつか目覚める日を待っているのだろうか。いつか、またこの世に生まれ出るときを待ちながら。
 不可思議な思いが少年の胸に芽生えた。
 これから孵るという庭の月の花を、その上で静かに睡る卵の存在を思う。
「なんか生きてるみたいだ……」
 そんなわけはあるはずがないのに、呟きが漏れる。馬鹿馬鹿しいと笑われるかとも思ったが、綿貫はどこか神妙な顔つきで口を噤んだままうなずいた。
「神秘的って、こういうのをいうんだろうな」
「うん」
 静かに筺のなかに石を戻す。
 また見に来てもいいだろうかと綿貫に問えば、快く承知してくれた。綿貫の父親は石を集めているのだという。外国までわざわざ足をはこぶこともよくあるそうだ。ずいぶんな熱の入れようだが、鉱物の研究でもしているのだろうか。
 そのことを問うてみると、いやただの趣味、との返事が返った。変わった人間は意外とどこにでもいるのかもしれない。他にもいろいろあるとのことだったが、他の石は色合いがとてもきれいではあったけれど、最初に見せられた琥珀ほどの感興は湧かなかった。
 

 鎌のように細い月が、夜空にたよりなくかかっていた。  
 その晩、庭に下りていくと、すでに月くんは花のそばにいて、もうすぐ孵るよ、と云った。ありがとう君のおかげだね。
 感謝のことばをかけられ、少しばかり少年は照れくさいものを感じた。自分に礼を述べる人間など、これまでにいたためしがなかったから。
「でも、おれ何にもしてないよ……」
「そんなことはないよ。大切だと想い、見守る。それだけでいいんだ。その気持ちがあるだけで大丈夫なんだ。ささいなことだけど、できない人にはできないから。大切なものはきみにもあるでしょう?」
「うん」
 月くんのいう「大切なもの」というのは、きっと物のことではなく、思い出や記憶とかそういったもののことのような気がした。
 少年がこくりと頷くと、月くんが微笑む。冷たそうな名前とは異なり、あたたかい笑みだった。 
「……孵ったらどうなるの?」
 おそるおそる少年は、疑問を口にのぼせた。
「すぐに巣立つよ」
「それじゃあ、もうすぐ終わりなの?」
 始まりがあるかぎり、何事にも終わりがある。そんなことははじめから百も承知のはずなのに、この夜が終わることがどうにも信じられない。信じたくもなかった。
 月くんと一緒の晩は、睡らずにいるというのに少しも疲れず、花の様子を眺めことばを交わすだけなのに、ただ愉しいばかりだったから。
 ただ二人並んで、じっと口を噤んでいるだけのこともある。
 でも、そうしてすごす静寂は少しも気詰まりではなかった。少年が以前すんでいた都会の喧噪とはまるで違うけれど、夜は意外と物音に満ちていて、たくさんの命がその営みを続けていることがよくわかる。以前は気にも留めなかったことだ。
 風のささやきや虫のすだき。
 音だけでなくさまざまな匂いが満ちあふれている。

 しばらく沈黙していた月くんがゆっくりと立ち上がって云った。
「ほんとうはね、こんなふうにしちゃいけないんだ。〈庭〉からも出てはいけないし、だれかとことばも交わしちゃいけないことになってる。特別に許してもらったけれど、これ以上はもうこちらには来られない」
 それが今いるこの庭の話でないことは月くんのことばの端々からうかがえた。
 ひどく哀しげな表情をするので、自分ばかりでなく、月くんも惜しんでくれていると思えば、哀しみのなかにも、ほんの少しばかり慰められる心地がした。
「でも最後に、君を招待するよ」
「さいご……」
 間近に迫る終わりの時がいやおうなく感じられ、少年はうなだれた。
 哀しい気持ちでうつむいていると、月くんが少年の両手をとった。ひどく冷たい手だった。まるでその名前のように。
「あえなくなっても、ずっと夜くんといっしょだ。だから寂しくなんかないよ」
「うん……」
「卵が孵るから、生まれるから」
「そう……」 
 目の前の花は最初のときに比べて、かなり輝きをましているように見える。弱くなる月光とは反対に、まるでその光をたくわえてでもいるかのように、うちがわから銀の輝きを発している。
 ときおり、コツコツという音が聞こえるのは、なかに眠る雛が出てこようとしているのだろう。考えただけで少年は胸が高鳴るのを感じた。
 まだ終わったわけじゃない。最後まで見届けないと。

 明け方、まだ暗いうちに月くんは戻っていった。眠れないかと思っていたけれど、考えごとをしながら寝転がっていると、浅い眠りに引きこまれる。
 夢を見た。
 まどろみの底は、繭につつまれているかのように温かかった。卵の中の雛になったように、ぬくもりのなかを漂っている。琥珀色の海のなかを魚のように、鳥が泳いでいる。ここはもしや生まれる前の世界なのかもしれないと少年は思った。
 夢のなかで夢を見ている。自分がそこにいて、その自分をどこかよくわからない高みからもうひとりの自分が眺めている。
 大好きな祖父がそこにはいた。
 少年は祖父といっしょに大きな庭のなかにいた。
 もっと小さかった頃、少年はここよりもずっと大きな町に住んでいて、長い休みのときなどには、よく遊びにきていたのだ。そんなとき、きまって庭いじりをする祖父にまとわりついていた。
 おじいちゃんは植物が好きらしく、少年が覚えている限り、いつも庭にいたのを覚えている。そして、小さな用事をいいつかっては、満足をおぼえたものだ。褒めてもらい撫でてもらえると、自分がなにか大切なものになれたような気がしたからだ。
 そのなかでもとりわけ鮮明に焼きついた記憶がある。
 祖父はよく庭の片隅で手をあわせていた。何もないのにいったいどうしてなのだろうと、いつも不思議に思っていた。それを母に問えば、お父さんもうぼけちゃってるのよ、という返事だった。
 でも自分には、その言葉はなにかが違う気がしていた。庭いじりをしている祖父は、かくしゃくとしていて、自分に何かを頼むときも、わかりやすく説明してくれたから。ぼけているなんてそんなの嘘だと、思っていた気がする。
 きっと、自分の目には見えないなにかが、大切ななにかがそこにはあるのだ。
 もしかしたらおじいちゃんも、自分のように花の世話をしていたのかもしれない。
 目には見えないけれど、それがきちんと孵るようにと、手を合わせ願いを込めていたのかもしれない。 
 

 午後おそく、学校から帰ると庭のほうから人の声がした。嫌な予感にせき立てられて、庭を覗いてみれば、おばさんが作業着のようなものを着た見知らぬ男の人といっしょにいる。いつにない行動に不安がにわかに募る。
 昼間に家にいたためしがないから、完全に油断していた。 
「なにしてるの!」
 大声を上げれば、はっとなったようにおばさんがこちらを振り返る。
「あら、お帰りなさい」 
「なに、……してるんだよ」
 息を切らしながらも、身の内側から突き上げる衝動に任せて声を荒らげれば、おばさんが驚いたように目を見開いた。こんなふうに怒りをあらわにしたことなど、一度もなかったからだ。あの男の人が自分たちを捨てたときでさえ怒りなどしなかった。ただ、ひどくむなしく、哀しかっただけだ。だれにも必要とされない存在である自分たちを哀れだと感じただけだ。
「なにって……ねえ。雑草だらけだし、さすがにそろそろ手入れしないといけないかと思って……」
「今まで、ほったらかしだったのに、なんで、……今頃」
 感情が高ぶりすぎて、うまく言葉にできない。途切れさせながらも、どうにか口にすれば、おばさんがその様子をいぶかしむように首を傾げた。
「ねえ、ちょっと落ち着きなさいよ、どうしたのよいきなり」
 困惑まじりに云う。
「ほんと勝手なことばっかり。もう、いい加減にしてくれよ」
「え、ちょっとなんなのよ……さっきから。なに怒ってるの」
 肩を怒らせて、睨みつけるとおばさんがひるんだように息を吞んだ。それも当然かもしれない。あらゆるものに無関心などこか気味の悪い子どもと思われていたのだから。
「あ-、……それじゃあ私はこれで。作業の手順なんかは先ほど云った通りですので。また後日伺いますわ」
 親子喧嘩に巻き込まれては困るとばかりに、ごほんと一つわざとらしい咳払いをして、作業員らしき男の人はそそくさと立ち去った。
 彼がいなくなると、昂ぶっていた感情が急速にさめていった。
「……なんかよくわからないけど、そんなに大切なら一言くらい云っておいて」
 少しばかりむっとしたようにそういうと、おばさんは家の中に戻っていった。
 ひとりになると少年は、花のあるあたりへと視線を走らせた。太陽の光の下では姿が見えないため、どこにあるのかは、しかとはわからない。見当をつけたあたりを慎重に探ってみる。
 踏みつけられていたらどうしよう。もうすぐ孵るというのに、卵が割れてしまっていたら。そう思えば気が気でなかった。だが、どれほど気をもんだところで、夜にならなければ様子を窺うことはできない。
 深いため息と同時に、少年は肩を落とした。不安で不安でたまらず、どうにかなってしまいそうだった。

 
 寝静まった小さな町には、まったくひとけがない。ところどころ申し訳程度に街灯がともっているばかりの夜道は暗く、深い闇の淵へと呑み込まれてしまいそうだ。新月であるため、月明かりもない。手のひらにやさしく包み込んだものを壊さないようにしながら、可能な限りの速さで少年は夜をひた走った。丘のあるほうへ――。
 その晩、いつもの時間になっても月くんはやってこなかった。だから、少年は自らおもむくことにしたのだ。それに、地面に落ちてしまった卵をそのままにしておくのはこわかった。日が暮れて、おばさんが仕事にでかけた後、少年は庭へと下りてみた。嫌な予感に心臓がわしづかみにされる。
 それを目に留めた瞬間、涙が出そうになった。
 昼間の作業員の人に踏みつけられたのか、花は凋れて枯れていた。あと少しだったのに。もう少しで孵ると云われていたのに。せっかくだれかが自分に仕事を頼んでくれたのに。
 叫びが躰の奥からほとばしりでそうになる。
 自然とひとみから涙があふれた。どうしよう。どうしたらいい――。嗚咽がこみ上げてきて少年は口を両手で塞ぐと、その場にしゃがみ込んだ。両手で顔を覆うと、肩がふるえる。
 ひとしきり涙にかきくれ、ぼんやりしていると、幽かな光が視界をかすめた。雑草にまぎれるようにしているが、そこにまるいものが転がっている。
 花のうえにあった卵だ。もしかしたらまだ大丈夫かもしれない。おそるおそる指先で触れれば、仄かな温みが伝わるような気がした。 
 花を動かしてはいけないと云われていたけれど、こうなってしまえば、もうなりふりかまってはいられなかった。散った花びらの傍らに落ちているそれをそっと拾い上げる。やさしくハンカチに包み込み、少年は駆けだした。洋館のある丘のほうに向かって。
 ぬるい風が膚をなで、帳のおりた静寂のなかでは、自分の呼吸音しか聞こえない。呑み込まれそうな夜の隧道をくぐりぬける。
 息を切らせながら、坂道を上った。そのうえにある社の向こうに洋館があるはずだ。
 うっそうと茂る森の木々が濃い蔭をつくっていて闇が深い。けれども、手のなかの小さなぬくもりが導いてくれるような気がして怖くはなかった。正しい径はそれが指し示してくれる。あともう少し――。

 その庭には、少年のところにあったあの花がそこかしこに咲いていた。一歩足を踏み入れた瞬間から、ここがあるべき場所なのだとわかった。濃い匂いがただよってくる。鼻腔にその香りが満ちるだけで、頭がくらくらしてきた。
 どの花も蕾を開いて、孵化のときを待っているようだ。今夜は新月。月が光を失い、また膨らみを増していく、そのときに生まれるのだという。
 どこからか響く鈴の音につつまれながら、ゆっくり歩いていくと、庭の片隅に人影があるのに気づいた。
 少年が声をかけようとしたら、それよりも早く、その人が立ち上がってこちらを向く。
 歩みがとまった。驚いてしまったのだ。
 すると、こちらに気がついたらしい、彼が口をひらく。
「おやおや、きみはいったいだれなのかね? 人の子がやってくるなど、実に実にめずらしい」
 不思議な抑揚のある口調は、まるで歌か詩を朗唱しているかのようだ。云いながら、燕尾服を着た大きな男のひとが少年をながめおろす。男の首から上は梟の顔をしている。人間の胴体に、鳥のあたまがのっかっているのだ。
 鳥人間だ。
 それは明らかに奇怪でおよそ現実にはありえないはずなのに、驚きこそすれ少しも奇妙だとは思わなかった。況してや怖いなどとはまったく思わない。燕尾服もその男のかもしだす風情にひどくなじんでいて、そのきびきびとした物腰動作からすると、この人はもしかしたらこの邸の執事なのかもしれない。
 でも嘴が鋭すぎて、それだけが少し怖い。つつかれたら痛そうだな……とそんな埒もない想念が頭の片隅をかすめた。燕尾服をまとった紳士がそのような無作法に及ぶなど、到底ありえそうに思えなかったが。 
 少年のそんな思いはまるで知るよしもないとばかりに、ふくろう男がことばをつづける。
「今日はお山のほうで祭りがあるのだよ。ああ、せわしなくって、どうにもいけない。料理の支度もしなければならないというのに、まったく手が足らない。猫の手もかりたいほどだ」
 引っ越してきてからまだ日が浅いとはいえ、そんな祭があるなどということは、少年は聞いたことがなかった。この町にずっと住んでいるはずの祖父の口からも一度も聞いたことがない。おそらく自分のいたところとここは、つながっているようでつながっていない、まるで違うどこかなのだろうと思った。
「あの……これ」
 そう云って、少年は大切に持ってきたものを差し出した。ハンカチを開いて見せれば、ふくろう男が金色をしたまんまるの眼をこれ以上はないほどに見開く。頭がぐるりと一回転し、戻ってきた頭がこちらをしげしげと見つめた。
「おや、おやおやおやおや」
 男はまるでそれしか云えなくなったかのように、そればかりを繰り返す。

 少年が差しだした両の手のひらのうえでは、卵がほのかな光を放っていた。よく目をこらして見ると、そのなかには小さな虹がかかっている。さきほどまでは、鈍く光るばかりだったのに、いつの間にかそれは、青白いそれから色合いをかえていた。
「ごめんなさい。世話を頼まれていたのに、ぼくがちゃんとできなかったから……」
「ふうむ……もうすぐ孵りそうな案配ではあるな……。ふむ……なんともまあ、ふしぎなこともあったもの」
 そう云ったきり、ふくろう男は口をつぐんでしまった。ぐるぐると頭を動かしながら、なにごとか思案をめぐらせている。後ろを向いたり、上下がおかしくなっていたりとずいぶんせわしない。
「これ……地面に落ちてたんです。花が枯れてしまって……多分ふみつけられてしまったんです。世話を頼まれたのに、ぼくがちゃんとできなかったせいで。せっかく頼んでもらえたのに……ほんとうにごめんなさい」
 両手のひらをさしだすようにすると、ふくろう男がしげしげとそれを眺める。
「たしかにこれはこの庭にあったものだ。先日、泥棒猫に盗まれてしまってね。本当に本当に大切なものなのだよ。どこぞの庭に着床したとは報告を聞いていたが……」
 大切なものと聞いて、ますます申し訳ない気持ちがつのり少年は身をすくめた。叱責されるかもしれないと思い、おそるおそる次の言葉を待つ。そうでなくとも、取り返しのつかないことになっていたらと思うと、心が痛む。
「いや、実に実にありがたいことだ。もう取り戻せないと思っていたのだからね。……ああ、心配には及ばない。もうまもなく孵ることだろう。君が世話しているということも、しかと聞いている。よくぞここまで返しにきてくれたものよ」
 それを聞いてようやく少しだけ肩の荷がおりたような気がした。安堵の息がもれると同時に、緊張が解けたせいか、その場にへたりこみそうになる。
 よかった……と少年が小さく呟くと、ふくろう男がかすかに笑ったような気がした。表情はよくわからないけれど、笑みの気配をたしかに感じたから。
 と、そのとき、手のひらのうえの卵が、かすかにぴくりと動いた。鈍かった光がさらに強まり、明滅をはじめる。鼓動のような音も聞こえてくる。自分の鼓動と重なりあって、焦燥がつのる。
「ど、どうしよう……」 
「落ち着きなさい。大丈夫だ。きっと周りの花に共鳴しているのだろう。もうまもなくこの庭の花がいっせいに花開く。ともに天に昇るために」
「天……」
 見上げる空には星が輝いている。少年にもわかる星座が視界をいろどっていた。宝石のように輝く星々につきそうべき月だけがない。
「虹色のそれは天竜の卵なのだ。もっともめずらかにしていと尊きもの」
 ふくろう男が託宣のように仰々しい声音で告げる。
 すると、その声に反応するかのように、コツコツと内側からつつくような音が聞こえた。と同時に、月光を閉じ込めたような色合いのそれが虹色の輝きを帯びる。かと思うと、四囲に咲き乱れる鈴なりの花々が共鳴するように銀の音を響かせる。
 手のなかが熱い。
「じっとして」
 気がつけば、隣には月くんが立っていた。その手が包み込むようにやさしく卵のうえに載せられる。
「生まれるよ」
 手のなかが仄かなぬくもりに満たされる。小刻みに揺れるようだったのが、大きく一つぶるりと震えたかと思うと、硝子を割ったときのような透明な音とともに、光が強くなる。まばゆさに思わず少年は目を閉じた。
 一瞬ののち、うすく瞼をひらくと、手のひらのうえには虹色の光があった。ただの模糊とした塊にすぎないのに、それが翼を拡げるのが見えた気がした。
 それに呼応するように、あたりに咲く花々がいっせいに蕾をひらく。虹色をおびた光が渦をなして、星空へと向けていっせいに飛び立っていく。さまようようなものもあれば、意を決したふうにまるで迷いなく昇っていく光もある。この時を待っていたとでもいうように。
 虹色の光の筋がひとまとまりになり、渦をつくって天をさして昇っていく。よく見れば一つ一つは鳥のような姿をしている。その中心にはひときわ大きなそれがある。まるで皆を導くかのようだ。
 虹色の竜巻、あるいはオーロラのようだ。
「すごい……」
 思わず嘆声がもれる。まるで世界が誕生するその場にいるような、感動が少年の胸をしめる。光が少しずつ弱くなり、空へと吸い込まれるように消えた後も、少年はしばらく動けずにいた。
 りんりんと響きわたる鈴の音の余韻が耳のなかにある。静寂が戻ってからも、胸の震えがやまなかった。いまや天には星空だけがある。
 呆然と立ちすくみ何もいえず押し黙っていると、月くんが手を引いた。促されるままに邸のほうへと連れていかれる。
 庭先に出されたテーブルのうえには、いつ準備をしたのか、茶器が整えてあった。
 少年が月くんとともに席につくと、ふくろう男が高らかに宣言する。
「さあ、茶会をはじめましょうぞ。今宵は特別なお客様がいらしておられる」
 少年の向かいが空席なので、そこに客が来るということなのだろうか。不思議に思い、きょろきょろと周囲に視線を走らせるも、少年と月くん、ふくろう男以外にはだれもいない。 すると、傍らに置かれたワゴンのようなもののうえにある銀色のポットを手にして、ふくろう男が、硝子の盃に茶を注ぐ。紅茶なのかと思ったら、それは蒼い色をしている。湯気を立てながら、最後のひとしずくが注がれると、先ほどまで眺めていた星空が器のなかにひろがった。不思議な花の芳香も漂ってくる。
「月のお茶をどうぞ」
 差し出された盃を見れば、まるい満月が浮かんでいる。でも空を見上げてみても、月はない。あるのは、星のまたたきだけだ。
 空を映しているわけではなく、月がほんとうに水のうえに浮かんでいるように見える。
 湯気のたつそれを口にゆっくりと含めば、少し甘い味がした。花の香が鼻腔いっぱいにみちる。それでわかった。
 これは、この庭の花のお茶だ。
 不意に月くんが云った。 
「あのね、君のおじいさんも昔ここに来たことがあるんだよ」
「えっ」
 驚いて、月くんのほうをふりむく。
「君のおじいさんも、君のように花の世話を手伝ってくれた。弟子入りしたいなんて云ってたこともあるんだよ」
「弟子……」
 やっぱりそうだったんだと思う。祖父もまた、自分と同じだったのだ。記憶のなかにいる祖父の姿はたしかになにか大切なものの世話をしているようだった。だからこそ、きっと月くんも自分に手伝いを任せてくれたにちがいないと思う。
「さあ、お客様がいらした」
 ふくろう男の声にそちらを振り向けば、頭からうえがいつのまにか、人の顔に変わっている。それは、少年のよく知る人間のものだった。
「久しぶりじゃなあ」
 執事のお仕着せを着ているから、ふくろう男にちがいないのに、今やそれは少年の在りし日の祖父の姿であった。
「おじいちゃん!」
 それに気づくなり、少年は椅子を蹴倒すようないきおいで、立ちあがり抱きついた。大好きだった祖父がそこにいることが信じられない。
「よしよし、寂しい思いをさせたなあ」
 そう云って、祖父が頭をなでてくれる。もう小さな子どもではないというのに、昔の自分にかえったようだった。
「ぼく……あの家に住むのがつらかった……。おじいちゃんはいないし……最後に会うことすらできなかったし……」
「すまんなあ……。わしもお前のことは心配しておった。できれば、最後に一度だけでいいから、話したかった。間に合わんかったのも、運命だろうよ」
 涙があふれそうになる。でも泣かないほうがいい。心配ばかりをかけてきたのを、少年はよく知っていた。懸命に涙をこらえていると、祖父がしゃがみこみ、目線を合わせてくる。
「あいつを許してやってくれんか」
 それが、おじいちゃんの娘――少年の母のことをさしていることはよくわかった。
「お前が、あいつのことをよく思っていないことは知っている。あの子が我儘に育ってしまったのは、わしとお祖母ちゃんが甘やかしすぎたのが悪い。ずいぶん遅くにできた一人娘じゃったからの……」
「でも……」
「あれもあまり器用ではないからな。本当は、きちんとしたいのに、いつでも流されてしまう。人間というのは弱いものだ。だから、お前があいつを支えてやってほしいんじゃ」
「支える……」
「そうだ。花の世話だってちゃんとできただろう? お前は存外しっかりしている。お前なら大丈夫だとわしは思っている」 
 そうだろうか。自分の母親でありながら、意地悪く「おばさん」と呼んでいた自分などに、そんなことができるのだろうか。うつむいて返事をせずにいると、また頭をなでられた。なつかしい感触。でも少しだけ違うのは、祖父でありながら、祖父ではない。ふくろう男の身体を借りているからだろうか。
「難しくはない。ただ、少しばかり心のこわばりを解けばいいだけのことだ。今だって、あの子はお前のことをひどく心配している」
「えっ」
 驚いて顔を上げると、やさしい眸が少年をじっと見つめている。
「どうでもいいなんてことはこの世にはひとつもない。ここにある花も、みなが望んだからこそ、生まれ変わることができたのじゃ。さもなくば、凋れてしまい、二度と生まれ変わることなどできなかったはずだからの……」
 そう云って、しわ深い手が少年の頭をなでる。
 蕾のなかには命が宿る。けれども、それを咲かせることができるのは、ただ人が心から望んだときだけなのだと祖父は云った。世話をすることができるのは、そういう人間だけなのだと。
「それにお前はあの特別な花を育ててくれた。誰にでもできることじゃない」
「特別……」
 優しい笑みを浮かべたまま、祖父がうなずく。
 もうずっと、自分にはなにもないのだと思っていた。だから、だれもが自分に対しては無関心なのだと。
「約束、してくれるか」
「約束……?」
「あの子を守ってくれんか。お前にならできる」
 普通は親のほうが子を守るのだと思ったけれど、でも確かに祖父にとっては娘はいつまでも娘なのだ。
「これを」
 そう云って祖父が手を差しのべてくる。手のひらを向ければその上に重ねられた。首から下は燕尾服を着たふくろう男のそれなのに、そのときばかりはかつての祖父の皺深い手のような気がした。
 ぬくもりが伝わってくる。すべすべした感触のものが手のひらの上に置かれた。
「これでようやくわしも旅立てる。またいつか会おう」
 その一言を発すると、祖父はやさしく微笑んだ。
「どうやら、あの方もようやく旅立てたようですね」
 祖父の姿はそこになく、すでにふくろう男に戻っていた。しきりと首を振って、得心したような仕草をしている。
「大丈夫だよ。すぐにまた会えるから」
 かたわらの月くんが慰めるように云う。確かに祖父も「また」と云っていた。
「ほんとに……?」
「うん」
 まだ手に残るぬくもりが少しさびしい。月くんがしっかりとうなずいてくれたので、さみしさが少しだけ和らぐ気がした。
 拳をにぎったままの右手をひらく。
 開いてみるとそこには、青い光があった。
 
 *

 転校生のことは、以前から気にかかっていた。いつもひとりでいて、誰が話しかけても無関心そうに、うすい反応しか示さなかったので、こいつは何が愉しくて生きているのだろうかと、疑問に思ったものだ。でも学級委員だから、担任に云われたから、声をかけたのじゃない。図書室で見かけたときは、何にも興味がなさそうな転校生が熱心に読みふけっているのを見て、意外に感じると同時に、こいつも皆と同じなんじゃないかと思っただけだ。
 だから、思いつきで、自分の家にある石を見せてやることにしたのだ。父親が石集めを趣味にしていて、旅先でしょっちゅう珍しい石や鉱石を見つけては、持ち帰ってくるのだが、彼に見せたのはそこらに転がっている石とは少し違うとはいえ、さほど珍しいものでもなかった。
 なのに、思いのほか熱心に観察しているので、こちらのほうがいささか申し訳なく思ったほどだ。正直なにが面白くて、動かぬ石を見つめているのだろうと。今にも物いわぬ石に向けて、話しかけそうなほど、それはそれは熱心に見つめていたから。
 誰が話しかけても、返事どころかほとんど何の反応もない。ほんとうにこいつは何を考えているのだろう。そんなふうに思いはすれど、それでも他の人にはできなかった反応を引き出せたのが少しうれしかったのを覚えている。
 それからまもなくのことだった。ある日、彼の姿が見えなくなった。造園というほどでもないが、さまざまな雑事を引き受ける何でも屋的なことをしている従兄弟が、その少し前に彼が母親と言い合いをしているのを見たという。親子げんかにしては、かなり険悪そうな雰囲気で心配になったと、従兄弟は云っていた。
 家出をしたのだろうか。そんなそぶりはどこにもなかったが、もとより何を考えているのかわからないと云われていたくらいだから、原因なんてわかるはずもない。
 だが、自分のせいだと思った母親は、よほど衝撃を受けたらしく、しばらく手のつけられないような有様だったという。
 行方は杳としてしれず、駅などの人の往来のある場所でも目撃者はひとりもなかった。だから、この町の年寄り連中は、ありゃ神隠しにあったんだよ、と噂しあった。だって、あそこのうちはねえ――と。それが一体なにを意味するのかよくわからなかったし、今の時代にそんなものがあるなど、正直信じられない。

 三か月ほど経った頃だったろうか。夜道をふらふら歩いているところを、保護されたと連絡があったのは。
 どこからかひょっこり現れた転校生は、その間に自分の身に起きたことはよく覚えていないらしく、花がどうの、石がどうの、卵がどうのというようなことをぶつぶつ呟いていたのだという。
「ほったらかしにしてごめんね」
 母親はそう云って、泣き崩れたそうだ。扱いあぐねていたけれど、なんだかんだと自分の子どものことは気にしていたらしい。でもそれも、きちんと言葉にしなければ、相手にはなにも伝わらない。どうでもいいと思われているのだと、彼が思ったところで無理もないだろう。
 その後、どうやら二人の関係は少し改善したらしく、何の問題もなく表面上は普通の生活をとりもどしたようだ。中学を卒業し、高校に進学した頃には、この町に生まれた頃からいる生徒たちとも問題なくなじんでいた。自分がかまう必要は、だから、もうどこにもない。
 転校生だったあいつも今や、大学生だ。この春から上京し、自分と同じ学校に通うことになっている。二人とも県の寮に入ることになっているので、なんというか、まあ腐れ縁とでもいうのだろう。
 それでも、たまに少し変だと思うことがある。見えないものを見ているような、そんな感じを受けることがある。ときおり、裏山をひとりで散歩しているときもあるらしい。でも、以前のような危うい感じはもうしていないから、きっとあいつも成長したということなのだろう。
 

 あの頃のことは、今でも時おり夢に見る。でもあれは夢ではない。証明するすべなどはどこにもないが、現実だったのだと自分の存在すべてが信じている。
 しばらく姿を消していたと云われても、ああそうなのかと思うだけだった。
 手の中に残っていた卵の殻は庭の隅に埋めた。そこからまたあの花が芽を出すことを知っている。そうすれば、また、やってきてくれると知っている。
 だって、約束をしたのだから。
 東京へと発つ前の晩、窓辺から庭をみおろすとほの白い光が見えた。
「また会えたね、夜くん」
 その声がどこからか聞こえた気がした。

 

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