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「ケルベロス・セオリー」の展示を反芻するほどに、私自身が家父長制的価値観に気持ちよく浸ってきた奥底の悪が引っ張り出された。


「ケルベロス・セオリー」の展示を反芻するほどに、私自身が家父長制的価値観に気持ちよく浸ってきた奥底の悪が引っ張り出された。


「ケルベロス・セオリー」というアーティストコレクティヴによる展示会&イベントが名古屋の「See Saw gallery + hibit」にて催された。彼女たちの展示&イベントはこれまで名古屋にて、「spazio rita」「Minatomachi Art Table」で開催され、今回で三度目だと思われる。


「See Saw gallery + hibit」は普段、アカデミズムで美術を履修し、現代美術の枠組み内で活動する画家の絵画が主となり展開しているギャラリーであり、名古屋のみならず東京で活動する画家の展示も多い。私のような一般の美術鑑賞者の立ち位置から見たとき、日本の現代美術界隈における、特定の匂いが色濃く染み付くギャラリー、との印象が強い場だ。たとえば公募展界隈にはそれぞれに島宇宙があると理解できると思うが、現代美術という範疇でも公募展的雰囲気を纏ってる界隈は多く、同じ顔が集まり閉じ気味で島宇宙的、と言えばいいだろうか。トークイベントに集まる顔ぶれは、いつもの数寄者、学生や業界の人ばかりが見え、内輪のオープニングパーティが催される。トーク中に長々しい質問をするのは中高年の男性ばかり。作家さんに対して年下だからとタメ口で話す。

ケルベロス・セオリーの主要メンバーは、愛知県芸大や東京芸大など、有名美大でアカデミズムの絵画を履修してきている方々で、外部から見れば彼女たちもアカデミック中心部にいるメインストリーム側の人たちのように見える。だが、彼女たち各々が現在制作するものは絵画でない。また彼女たちは美術活動と並行して、フェミニズム運動や反差別運動、ドラァグショーなどの集まりや言論に積極参画し、それらにおいて協働しているのは、ほとんどが美術業界の人たちではない。
そんなことは前衛の時代もやっていたではないかとのツッコミがきそうだが、同じだとして何が悪いのか。平和や平等の状況に対し、○○時代の○○と同じではないか、とネガティヴに揶揄する人なんかほとんどいないだろう。ただしそれとは別に実際のところ、前衛の時代は極めて男性中心主義で暴力と抑圧に塗れていた点はある。


さて、作品の微細を美的に批評するのは、アカデミックでオーセンティックな批評にまかせたい。私はざっくりな概説しかできない。

山もといとみさんの作品は、10人程度が車座となって安らいで座れる、愛知県の地図形状をディフォルメしたラグだ。それは愛知県の女性抑圧の歴史を土台とした造形物であり、女性抑圧の歴史と現状に対する抵抗そして、先人の犠牲に思いを馳せて先人が築いた土台をしっかり継承し、今日の抑圧に抵抗し続けねばならない意志を、しかし堅苦しくならず安らいで、駄弁りながら理念を共にする人々が共鳴できるためのもの、との意味を持つ。殖産興業と管理教育のど真ん中な抑圧だらけの愛知県であり、今日だってトヨタをはじめ男性しかいない役員会議が実施されてる愛知県であるのだから。

山もといとみさんの作品

YOUYOUさんの作品は、無数の乳房を象ったテーマパーク・ワンダーランドで、カラフルで愛らしくも見えるけれども切り取られてエンバーミングされた乳房がビビットでカラフルな彩りを施された上で無限に並べられた魑魅魍魎の怨念とも見える。ディストピアとユートピアは面裏で宙吊り状態で、見る者の心理背景によってその色相はグルグル変わる。私は男性であるから読んだものや人から聞いたり映像にて発言を聞いたものなどの知見からしか言及できないけれど、乳房は男性からは美醜を比べられて評価されるものだし、男性からの評価を内面化した女性同士でも、美醜の比べ合いの心理が発動して、コンプレックスや劣等意識が育まれてしまうものでもあるだろう。

YOUYOUさんの作品

Moche Le Cendrillonさんは、アセクシャル(性的な魅力を他者に覚えない)の自認の上で、ドラァグクイーンのパフォーマンスをする。ドラァグクイーンの歴史はゲイによって築かれてパフォーマーはゲイがマジョリティとなっている。その中であえてMocheさんは、いわゆる「インターセクショナリティ(多数の差別構造と差別意識が交差する現実)の状況を美的にも意味的にも発現させて炙り出す意図を持っても臨んでいるだろう。もちろんそれだけでなく、ゲイやドラァグに対する強い信頼や連帯意識で臨んでいることも窺える。
Mocheさんは明確に「美醜」という、美術史の根幹にある主題に取り組んでいる。しかし「反芸術」「前衛」などのような「美術」というアカデミズムのカテゴリーのみで築かれた言論や分析などの言及は、軽々しく受け付けない。
例えば、身体や顔などへの美醜による批評が、ありとあらゆる社会場面に蔓延している現在地で、ダイエット、脱毛、薄毛、整形手術、老化対策などは電車広告とネット広告が下劣なくらいに煽ってくる。いかにそのような理不尽なる抑圧が酷く不愉快なものであろうとも、その構造に順応せねば生存自体がままならないと嫌々ながらも多数派に属そうとし、世に蔓延る美しさへと擬態し苦渋の面持ちで生きている人々が、社会にひしめく。
だからこそMocheさんの活動は実際的な生き方の例示であると見えるし、Mocheさん自身が美術のアカデミックな履修によって得た知見や感覚(一方でその美術の世界では美醜の扱われ方のおぞましさ、理不尽さが氾濫していると、私は色々な報道などから聞く)を用いて、広く美醜にまつわる価値観の扱い方の考え方を、生き様通して表しているように見える。

新メンバーであるさいとうえなさんは、雛人形が家父長制を支えた歴史構造物であることの俗悪さを指摘し、時間を巻戻して雛祭りの源となった流し雛の風習に立ち返らせてみるべきだの提案を、「灯をつけましょぼんぼりに」の曲の逆再生にて現した(ただし流し雛についても、女児を間引きして川流しした中国や日本での歴史的風習を想起させられるとの、YOUYOUさんからの重たい指摘も伺った)。また、今回の作品展示や説明文に明示されてないので、指摘すべきか迷うところはあるけども、さいとうさんが自身のHPに記載した文章や取材を受けた記事などを読むと、さいとうさんは石巻に生まれ育って暮らした最中で東日本大震災を被災した経験を持たれ、震災を経て愛知へと転居し生活をしていった過程で受けた、無数の暗黙の抑圧や、いわゆるマイクロアグレッション(発言者や行為者が発する無意識的な差別意識(事例を挙げれば「結婚しないの?」「彼女いないの?」「手の平は白いんだね」「日本語上手だね」「まだ傷は癒えないの?」などなど)に苛まされてきた経験が窺える。さいとうさんの展示にもそうしたインターセクショナリティとしての様々な抑圧の実態も、いくらか見えてくる。

そして、ドラァグクイーンであるクリトリア女郎さん。以前の「spazio rita」での展示ではゲストパフォーマー的参加であったが、今回は主メンバーとして参加された。
連日パフォーマンスがあり、そのほかの時間もクリトリアさんは会場に佇み鑑賞者や作家と会話することで、存在感を提示された。それは特別視される意味としての「存在感」でなく、「見られる」という搾取的図式が現実にある実態は踏まえた上での、人同士が互いに見合って共通の地平になることの意義こそを意識してるだろう。何かについて深く考え込み、それを修練させるからこそパフォーマンスして見せたいものがあるわけで、一方的に見られて搾取されるようなものではない。このことは、私は数度しか鑑賞できていないけれど、現代ストリップの空間や言論と近似したものを感じ取った。
さらにはクリトリアさんは展示空間として、ドラァグのパフォーマンスをベースとした映像と物質のインスタレーションという、現代美術の様式に落とし込んだ展示がインストールされてもいた。これは現代美術の空間づくりに卓越している山もとさんや、展示アドバイザーの山下拓也さんのサポートによるものとのことで、ドラァグの価値観を現代美術の価値観で感じ読み取れるように、翻訳した場作りが成されていた。
ここで私が言いたいのは、美術界隈外の人物を招聘したりコラボするという試みは大昔からあるけども、「こんな面白い人を見つけてくるなんてすごい」みたいな、プロモーターや企画者のブッキングの功績となるような作りにされていない、と思いたい。
幸いにもそうした見方をする鑑賞者や業界の方は、私がいたときにはほとんど見かけなかったが、そう見られかねない懸念も私としては見えた、展示やインストールの様式が、美術の作法に寄りすぎていたからだ。
また、クリトリアさんの展示が、「See Saw gallery + hibit」における主の建物とは別の、離れの空間に展示されていたのも、私はいい印象は受けなかった。ゲイやドラァグの人々が世間の目に見えないところに隔離されている現実についてを擬えた、という展示者側の批判的意図は読めたけれど、それでも、ただ単純に隔離されて通りから目につかないように仕舞われているように見えてならなかった。

クリトリア女郎さんの展示
クリトリア女郎さんの展示
クリトリア女郎さんの展示

浦野貴織さんは、今回は出展作家でなく冊子デザインなどの裏方として参画していた。前回の「Minatomachi Art Table」での展示においては主メンバーで参画されていたので、今回の会場で浦野さん本人に話を伺ったら、今回は少し離れた位置からの客観視でいることを、意識されているようだった。
チラシや冊子カバーデザイン、書体や紙質のセレクトなど、浦野さんによる美的な審美は、制作物の読み手として私は受け取れた。個人的にとても好きなデザインだ。この世界には美的な判断が無数あるはずだが、ある枠内の審美によって過度に測られやすくなってる現実がある。そうした偏った美的価値の物差しで歴史が刻まれ残っていきやすい。だからこそ、書物という残すべきことを残せる装置を用いて残すのは、意味や思想だけでなく美的価値観だってそうだ。

浦野さんのデザイン・DTPによる ケルベロス・セオリー New ZINE

塩豆大福さんについては、出演した場に私が遭遇できず、鑑賞をされた方のレビューを読みたい。


「演者と観者の垣根なし」を謳ってきた数多のプロジェクトを私もこれまで少し見てきたが、「セーファースペース(他者が不快となる言動をしない、他者の尊厳や価値観を傷つけないことを前提とした上で集いや参画を促す場づくり)」という前提が踏まえられていることで、自己を律したり内省する態度が場にいる人は全般的に自覚させられたし、演者の特権、また観者の特権という枠組み解消にも繋がる枠組みだと言える
だろう。
「セーファースペース」という用語が用いられるわけではないが、こうした価値観やルールはそもそもは小学校の学習指導の一番最初に位置付いているものだ。とはいえ大人であっても無意識に自覚できるものであるとは言えない。異なる価値観を持つ人々と集い、自律できる状況に適時出向いたりしないと、だんだん麻痺してしまうものかもしれない。




ここからは、私自身の精神内部に生じたものを記す。

私は40代のシス男性で異性愛者である。
家父長制、家族主義、男性中心主義なものの醜悪さが十二分に提示されて主張された「ケルベロス・セオリー」の展示空間に佇んで、私はそれらのメッセージを強烈に浴びたことで、翻って私の中には家父長制的、家族主義、男性中心主義なものに安らぎを覚えてきてる自分の深部が見えてしまった。その情念に反省すべきとの自己批判を強めても、それに反して自己の奥底からは男性性や家父長制的なものに対する安らぎや、愛着を覚える自分の表情がどんどんと出てきた。
そうした自己反応に対し、この精神内部の出来事は、禁断症状、アレルギー反応、ワクチンに対する副反応などと類似したものと、感じ取った自分もあった。

家父長制、家族主義、男性中心主義なものがよくないものと強く言明されたとき、私は理性的に受容したい願うが、心の奥底からはしんどさ、虚無感、希死念慮すら立ち上がってきた。これはつまり、私が無意識的に男性性や家父長制的価値観に安寧して依存して生きてきた実情がむき出されからだ。
このときのネガティヴ心情がどのようなものなのかを自己分析するとき、アルコールやギャンブル、性衝動のようなものを否定されたり取り上げられたとき、つまり依存対象を取り上げられたときに立ち上がる強い不安、怒り、虚脱感、寂しさの覚えと同じものだと理解した。

アルコールやギャンブル、性衝動などへの依存と同じように、私は男性性や家父長制の愉楽に無意識に精神依存していた。それらが誰かを傷つける価値観や営為であるとわかっていても、それらが取り上げられた時に発する虚無感や精神不安は不快で、その苦しみから逃れたくなる。しかしそれこそはまさに、私が心の奥底に男性性や家父長制を堅持して横たわらせていたことの証左であった。

様々な依存にまつわる記述から類察するに、私の内部に横たわり安寧していた家父長制的、家族主義、男性中心主義な価値観への依存は、そうそう取り除けるものとは思えない。今後、私は何十年かけて人生で対峙していくものだろう。

ただ、男性性や家父長制的価値観に依存してきた理由は、私の場合は自分の人生を見つめ返しそれなりに自己言及できる。しかしそれらが話せる場は少ない。私の場合、自己出版のエッセイや戯曲などの作品を通して仄めかしてはいる。だけれどその程度しかできていない。男性性や家父長制的価値観への精神依存を和らげるには、他の依存の具体例と同じく、本人による自己努力だけでどうにかなるものでないだろう。

男性性や家父長制的価値観への精神依存を少なくするためには、アルコール、ギャンブル、性依存などと同じように、もしかすればすでにある程度のプログラム的な解決法が見出されているかもしれない。カウンセリング、セルフケア、グループワークなど。男性同士のピアサポートも増えてきている(ただ、男性同士のピアサポートは下手に運営されると暴力や差別などを高め合って肯定しあう場に転じてしまうこともある)

私の場合は執筆がセルフケアになるだろうけども、それだけでは足りない。それもわかった。

YOUYOUさんの作品の一部である車 充電中


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