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永平寺、加賀温泉、金沢、五箇山 白山麓を廻った旅日記

2023/10/14、コロナ禍で先延ばしとなっていた祖母の納骨のため、私と母、おば、おじの四人で福井県の曹洞宗大本山永平寺を参った。

コロナ禍の社会制限が緩やかムードとなってきたところで、長らく手付かずだった祖父母が暮らした豊川市の家屋の家財整理を、今年の春先から親族一同(主としておばとおじ)で進めた。その流れから親族間でのやりとりも増え、祖母の納骨のお参りも今年に実施しようとの運びとなった。
母方の家系は祖父母いずれも江戸期より東三河の豊川稲荷門前の一族であって、豊川稲荷(妙厳寺)は東三河の曹洞宗拠点寺院であることから、永平寺へ納骨法要に参るのが習わしとなっている。

朝方に愛知県を出発し、おじが運転するワンボックスで永平寺を目指す。おばが旅の全ての手配とスケジューリングを担った。私たちは10年ほど昔に祖父の納骨にて永平寺を訪れ、その折には東尋坊や丸岡城などを観光したが今回は、永平寺法要ののち山代温泉で一泊し、翌日は金沢を訪方してから五箇山を廻るという、なんともハードスケジュールとなった。

福井県 南条SAにいた恐竜博士

永平寺での納骨法要は毎日五回実施される。道路状況などを鑑みて15時の回に間に合うようスケジュールが組んであったが、想定以上に高速道路をスムーズに運行でき、13時の法要に間に合う手筈となった。

法要が始まり、読経は複数の僧侶が掛け合いながらユニゾンで唱え上げ、大変聞き応えがある。曹洞宗の様式である引磬(ベル)・平太鼓・鐃鈸(シンバル)(俗に言う「チンポンジャラン」)や木魚を鳴らす係など、フルフォーメーションであると僧侶7人が必要だとのこと。焼香を挟んで読経は数十分続くけども、終始裏打ちのリズムなので私はとてもノレて楽しめた。

曹洞宗大本山永平寺

曹洞宗大本山永平寺は白山麓に位置し、白山信仰を霊力の土台とする。しかしながら越前から加賀、そして美濃に至る白山をぐるり囲む一帯は、おしなべて浄土真宗の信仰篤い区域であり、歴史的に白山がもたらす恩恵と災いが、多様な民俗や行事を念仏と共に紡いできた。余談だが曹洞宗と浄土真宗それぞれの命題である「只管打坐」と「専修念仏」は動と静の態度の違いこそあれど、いずれも「深いことを考えずただただやり続けろ」と思考停止を促す企図が共通している。さてここら一帯は民謡や踊り行事などが無数に点在し、日本海から大阪湾・伊勢湾へと通ずる重要街道が網の目のように張り巡らされてきた。人里離れた山間の集落や街道のどれもが、列島の歴史をいくつも動かしている。

永平寺参道の店舗にいた、大黒様と福禄寿の珍しいコンビ

永平寺での法要を無事済まして山代温泉へ向かった。山代温泉は粟津温泉、片山津温泉、山中温泉を含む加賀温泉郷の一角で、私たちは加賀市の山代温泉で宿泊を予定していた。永平寺からは高速道路で山代温泉へ直ちに向かうことができたが、山道を通る一般道を走って山中温泉を通るルートもあるとのことで、私のリクエストで山中温泉に寄り道してもらった。

私が山中温泉を訪れたかったのは「あやとりはし」を見てみたかったからで、「あやとりはし」とは生花草月流三代家元またATG映画の巨匠監督として名高い、勅使河原宏がデザインした鉄骨橋梁だ。バブル期に観光目的で建造され、橋梁表装の質感は、赤茶の錆止め塗料が剥き出され、鉄骨の工学的無機質を表象し、一方で立体構造は蛇や龍がうねるが如きフォルムを表現して生物的有機質を醸す。人工物と自然物との止揚を企図した、生花的思考で編まれたように見受けた。

あやとりはし
あやとりはし

「あやとりはし」から川辺に下れば川沿いに茶店が出ていたので、せせらぎに耳を済ませ珈琲をいただいた。時間が前倒しできたことでゆったり寛げた。

山中温泉のせせらぎ

山中温泉を後にし、宿のある山代温泉へ向った。宿にも予定より早く着け、そのおかげで付近にあった「九谷焼窯跡展示館」を鑑賞することができた。

九谷焼窯跡展示館

国指定史跡であり、江戸末期の巨大焼窯跡が保存展示されている。九谷焼は江戸前期に興隆したが、幕府によって廃窯させられたとも云われる。江戸後期に復興して近代には唐獅子などの名産品が流行した。外様筆頭の加賀藩は幕藩体制を通じて徳川より監視され続くが、この緊張関係が前田の領地のあらゆるところに散見し、後ほど記すが翌日訪れる五箇山においても幕府と加賀藩とのつばぜり合いは垣間見えた。

「九谷焼窯跡展示館」を見た後、宿での食事までまだ時間があったので、私は「古総湯」に浸かることにした。「古総湯」は2010年に建築家の内藤廣がデザインしたものだが、これは明治期にあった湯船だけの外湯をリメイクしたものだ。温泉街ランドスケープのシンボル的存在に位置づく。盤台を通り内部に入ると、たまたま誰も客がおらずの貸切状態で、掛け湯のみして湯に浸かる。ステンドグラスのあしらいは内藤廣による現代的デザインということではなく、明治期のものから元々ある意匠とのことだ。

山代温泉 古総湯
古総湯のステンドグラス

さて山代温泉はバブル期に興隆を極め、淫靡な享楽にて盛る遊興地として栄え、かつては数多の男性客で賑わったとのこと。現在はそうした面影は景観から見えない。というのも山代温泉は猥雑なイメージからの転換を図ろうと、内藤廣らによって「古総湯」を中心とした景観デザインを練り直した。とはいえ各旅館やホテル内では現在もコンパニオン遊びが盛んとのことで、様々な客の要望に応える温泉街として機能しているようだ。

薬王院温泉寺

二日目10/15は、朝湯を浴びて朝食をとったらば山代温泉を後にして、高速道路で金沢を目指した。

加賀藩の権力中枢である金沢城に隣接する尾山神社を詣でた。尾山神社は前田利家と芳春院を顕彰する神社で、明治初期に建造された神門のステンドグラス(ここでの呼称は「ギヤマン張り」)のレトロデザインで著名だ。
金沢城や尾山神社の地はかつて加賀一向一揆勢力の拠点であり、前田利家らの虐殺によって一揆勢力は滅んだ。現代では金沢の格式高き神社として庶民一般から愛されている様子で、観光客のみならず七五三や婚礼の参列で大変賑やかだった。

尾山神社 神門

また近江町市場にも立ち寄って、私はのどぐろ(アカムツ)や烏賊を購入した。

のどぐろ(アカムツ)


金沢滞在は1時間程度にして、雨の五箇山へと向かった。

五箇山区域に合掌造はいくつも点在するが、まとまって立地する「相倉合掌造り集落」を訪ねた。ちょうど雨が一時的に上がり、散策しやすく長閑な景観が楽しめた。雨のせいか観光客はそれほど多くなかったが、日本人観光客より外国人観光客が多かった。

相倉合掌造り集落
相倉合掌造り集落

平成の時代に「東海北陸自動車道」が通じたおかげで、名古屋から金沢・富山への移動は極めて簡便となった。高速道路途中にある白川郷・五箇山はもはや人里離れた秘境でなく、外国人観光客が期待する想像上の日本農村の理想郷が、テーマパーク的に展開している。

雨足が強くなってきたが時間的にもう一箇所巡れそうとのことで、国指定重要文化財「村上家」も訪れた。
3階建ての大きな家屋で、一階部分で火を焚いた囲炉裏を囲んでガイドさんが「こきりこ節」を口ずさむ。もうひと方のガイドさんの話すところでは、ダムが建設されるようになるまで洪水が多く、平地より山深い区域の方が生活の難が少なかったとのこと。3階部分で養蚕をし、蚕の糞を材料に屋敷の地下で火薬原料を精製した。

村上家
こきりこ節を謡うガイドさん

「村上家」は崖深い庄川の縁に立地し、庄川にかつては橋がかけられていなかった。あえての交通難を設ける意図があったからだ。逃げられない監獄・収容所として加賀藩が活用した。

流刑小屋
収容された政治犯

「日本の原風景」と称される五箇山合掌造は、豪雪の山間地帯で交通が閉ざされた立地を利用し、幕府の監視も届かないことから加賀藩の秘密火薬工場として機能した。土壌成分も火薬製造に適していたらしい。人の出入りはほとんどないが、政治犯含め様々な要人が流入したことで文化も伝わった。山間で民俗芸能が残る地区はどこも政治的緊張の歴史が色濃い。

この一帯は大戦後、電力需要や雇用創出としてダム建設が極端に推進されたことから、集落や文化の保存活動も早くから起こった。平成期の世界遺産登録と高速道路開業とがどのように因果しているかまで私にはわからない。

五箇山を後にして、愛知への帰路についた。

さて旅の道中は、車移動に時間の長くを費やすことからおばが気を利かして、車中で鑑賞できる映画DVDをいくつか用意してくれた。1日目は私のリクエストで「東京リベンジャーズ(2021年実写版一作目)」、二日目は母の関心から「ウエストサイド物語(1961年オリジナル版)」を観ることとなった。
うつらうつら鑑賞したが、どちらもヤンキー抗争がプロットの根幹で展開し、前者は歌舞伎の様式に塗れているというか、見栄と外連味と立ち回りと人情と色恋が散りばめられ、またこの作品の特色であるタイムリープ設定も、転生や生まれ変わりといった歌舞伎的題材の翻案にすらも見えてくる。「ウエストサイド物語」の方は「ロミオとジュリエット」を翻案したものとして有名だが、歌舞伎もシェイクスピア演劇もイエズス会劇を参照したとの説があるくらいだし、また日本における「ヤンキー」は、近代にハワイの黒人やプエルトリコ人を蔑称する呼称として広まったとの説すらあり、図らずも色々と勘ぐる思考を膨らます材料となった。

二日で白山麓をぐるりと廻ることのできる、自動車と高速道路の威力はすさまじい。

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