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スタッフストーリー#8 / 高齢者病院で実現する、介護の仕事とワークライフバランス

静岡県の公立短大で介護を学んでいた。
進学時に借りた就学貸付金は、卒業後に県内で一定期間勤務すると返済が免除されるというものだった。だから当然、静岡県内で就職をするつもりだった。
しかし2017年、卒業後に就職先として選択したのは、東京の青梅慶友病院だった。
青梅慶友病院で働くスタッフを紹介する『スタッフストーリー』シリーズ、
第8弾はリビングサポーターとして勤務する田中圭一郎さんのストーリー。


育休には準備が必要

毎日、一日単位で成長していくんです。
ミルクを飲む量だったり、笑顔を見せる頻度だったり、昨日できなかったことが今日にはできるようになったり。
そういう小さな変化をそばで見ることができた。
本当に幸せな時間になりました。

昨年、第一子が誕生したリビングサポーターの田中圭一郎さんは、今年の3月に1カ月間の育児休業を取得した。
その日々を振り返って、我が子の成長を見届けることができた喜びをそう語ってくれた。

人生には「今しかできないこと」がときに訪れる。
田中さんにとってこの育休は「今しかできないこと」の中でも大切な一つだったのだという。
一方で育休取得の準備にあたっては、いくつかの反省も口にした。

なによりまず勉強不足でした。
育児休業中は国から育休手当(育児休業給付金)を受け取ることができるのですが、そもそもこの制度についてしっかり理解していなかった。
育休をだいたいこの時期に取ろうかなと考えていたら、そのタイミングは育休手当の要件外だということが分かり、慌てて手続きをすることになりました。
申請から取得まで時間が少ない中で進めることになったので、部署への報告もギリギリになってしまってご迷惑をお掛けしました。

もっと早いタイミングから準備を進めておくべきだったという理由は他にもあった。

家計の面でも、経済的な準備が不充分でした。
給付金が支払われるタイミングは、こちらの希望どおりとはいかないので、収入が減る分や給付金の振込みがされるまでの期間のことも考えて、前もって経済的な準備もしておくべきだったと感じています。

2021年に厚生労働省が行った調査によると男性の育休取得率は14.0%。
(当院における昨年度の男性育休取得率は66%)
育休取得をためらう理由として「家計収入の減少」以外にも「取得しづらい雰囲気」などがあげられるのだという。
では、慶友病院で育休を取得した田中さんの場合は「取得しづらい雰囲気」を感じたのか、聞いてみた。

「言い出しにくい」とは感じませんでした。
事務の窓口でも丁寧に説明していただけましたし、病棟には子育てを経験されたお母さん職員も大勢在籍していて、逆に「しっかりやっておいで」と背中を押していただけました。
休み中の業務についても短い準備期間で引継ぎをしなければならなかったのですが「こういうときはお互い様」と言ってもらえる慶友病院の文化に甘えて、うしろめたさを感じることなく休みを取ることができました。

祖母との日々への後悔

小中学校時代、千葉県や神奈川県で過ごした田中さんは、所属する野球チームで汗を流し、学校では生徒会長として活動するなど、はつらつとした少年だった。

幼いころの田中さん

一方で自身の性格については、人との摩擦や衝突が苦手な子供だったという。

人が好きで、多くの友達と仲良くすることに喜びを感じていました。
家に帰れば三人きょうだいの一番上、学校では生徒会、そしてチームワークが大切な野球部。
そういう境遇にいたからなのか、みんなが摩擦をおこさずいつも仲良くしてくれたらいいのにと、そんなことを考えている子供でした。

そんな性格傾向もあって高校生になると、今度は人前に出たり輪の中心に立つことを避けるようになっていきました。
摩擦がおきそうな場所には近寄りたくない、と。

その頃は、将来の職業について「教員もいいかな」というくらいのぼんやりとしたイメージしか持っていなかったという。
結果的に、高校卒業後は静岡県立大学短期大学部の社会福祉学科への進学を選択した。

学費や生活費を自分自身で工面する必要があったので、経済的な条件、センター試験の結果などから選択肢を絞っていって、最終的に静岡県立大学短期大学部で介護を勉強することに決めました。
振り返れば、介護を選んだことは自分が育った環境も影響していたと思います。

小学校のころ、5年間ほど祖母と生活を共にしていたという田中さんは、自身のことをおばあちゃん子だという。
その反面、当時は子供っぽい反抗心から祖母を困らせることも多かった。
せっかく作ってくれたご飯を「食べたくない」とたびたび拒否したことを今でも悔やんでいる。

小学6年生のときから別々に住むようになり、祖母のありがたさに気づいたときにはもう会えなくなってしまいました。
失ったことで、その大きさを知る。それが私にとっては祖母の存在でした。
あの喪失感はいま、高齢者の方の力になりたいという原動力になっているような気がします。

返済免除を放棄

18歳、静岡の地で新たな生活がはじまった。
アルバイトを掛け持ちしていたとはいえ、学費と生活費の全てを賄うことはできない。
そこで田中さんは静岡県の貸付金制度を利用することにした。

介護福祉士修学資金貸付制度は、介護福祉士を目指す学生が就学資金の貸付を受けることができる制度で、卒業後に当該県内で5年間介護業務に従事する等の条件で返還が免除になるというものである。

(各都道府県の制度詳細は各窓口でご確認を)

そうして、介護の勉強を始めた田中さんだったが、いきなり壁にぶつかった。

入学してしばらくするとズーンと憂鬱な気分になりました。
介護って思っていたよりも大変な仕事かもしれない、と。
祖母との生活経験があったとはいえ、直前までただの高校生だった私には、介護現場の話を聞くだけでも暗い気持ちになってしまうというか。

なんとか前向きな気持ちで介護に向き合えるようになったのは入学から数カ月後。きっかけは介護実習へ参加したことだった。

デイサービスの実習に行ったときに、「そうか、介護ってきちんと根拠に基づいて行われているんだ」と実感できたんです。
介護に対する「つらい、きつい」仕事という思い込みを覆してもらえました。
ひとつひとつの行為に目的があって、技術と知識に基づいて実施されているんだということを目の前で見せてもらって、ストンと腑に落ちたんです。
そこからはもう大丈夫。アルバイトとの両立は忙しかったですが、学生生活は充実していきました。

静岡県の貸付金制度を利用していた田中さんにとって、就職先は「静岡県内」であることが優先的選択になるはず。そこから、どのようにして東京の青梅慶友病院へと進んだのだろう。

学校の講義がきっかけです。
講義の中で慶友病院の取り組みや働き方が紹介されて、理念が実際に具現化されている病院だということを聞きました。

実際はどうなんだろう、と興味が湧いた田中さんはインターンシップに参加した。その時の印象はというと。

企業の理念って標語みたいなもので、それは存在していても日頃意識するようなものではないと思っていたのですが、慶友病院ではその「理念」と「現場の業務」に乖離を感じませんでした。
ここは本当に有言実行の病院だ、と感動したことを覚えています。
「尊厳を守るケアをしましょう」と理念を貼り出すことは、どこでもできるかもしれませんが、現場の一つ一つの仕事にまでその精神が行き届くというのは簡単なことではないだろうな、ということは学生ながらに理解できました。

インターンシップを経て、青梅慶友病院で働くことに関心が深まった田中さんだったが、静岡県で5年間就労することで返済が免除になるという就学貸付金を受けていた。
県外での就職はその免除資格を失うことを意味する。

選択に迷った田中さんは、二度目のインターンシップを申し込むことにした。
もしかしたら、前回のインターンシップでは慶友病院の良い面ばかりを見ようとしていたかもしれない。
もう一度、マイナス面も含めてできる限りすべてを見てから決めようと考えた。

結果的にはその2度目のインターンシップを終えた後に入職を決心しました。
指導担当の先輩スタッフから、慶友病院で働く大変さも正直に聞かせてもらえて、逆に覚悟ができたというか、どうせ新卒で入るなら一流の環境で自分を磨きたいと思えたんです。
貸付金の免除と天秤にかけても、慶友病院でのキャリアには代えられないと考えて、この病院に飛び込むことにしました。

「亡くなったのがこの病院で良かった」


2017年4月に生活活性化員(2018年よりリビングサポーター)として入職した田中さん。
入職前に2度のインターンシップを経験していたとはいえ、働きはじめてからより強く感じるようになったこともあったのだという。

院内がきれいなことやイヤな臭いがしないこと、それに患者様の衣服や整容にも常に気を配っていることなどはインターンでよく分かっていました。
ですから職員になってからは、病棟以外の慶友病院に驚くことが多かったです。
例えば食事を提供してくれるフードサービス部。
フードサービス部のスタッフは直接的に患者様と接する機会は少なくても、患者様の豊かな一日のために食事を作るんだという思いを持っている。
院内の清掃を担当する環境衛生の方々も同じく、慶友病院の一員であるというその意識の強さに驚きました。
それから所属部署や職種にこだわらず、個人個人の得意なことを持ち寄って病院運営に活かそうという姿勢もおもしろいカルチャーだと思います。

では田中さん自身はこの職場から何を受け取っているのだろう。
人との摩擦や衝突が苦手で、人前に立つこと、輪の中心になることを避けてきたという気質は、何か変化が生じたのだろうか。

確かに人前に立って場を盛り上げるということは、10代のころは好きではありませんでした。
でも必要に迫られれば、なんとかなるんだということも分かりました。
病棟で自分が企画したイベントであれば、楽しんでもらいたいですし、盛り上げたい。
そんなときに苦手だから盛り上げ役は別の人に、なんて言っている場合じゃないですから。
それに場数を踏めば慣れてきます。今はもう苦手という意識はありません。
あ、それから私にとってはお酒のマナーを覚えられたことも、ちょっとした成長かなと思っています。
職員の飲み会イベントで作法を覚えることができましたが、そういう機会がちょうどよく用意されているのも自分にはありがたい環境でした。

25歳で結婚し、26歳で第一子が誕生。
いまは経済的に節約が必要な時期とはいうものの、ワークライフバランスに対しては概ね満足している。
休日は猫や子供と遊び、料理を作って夫婦で晩酌する時間が好きだという。最近では所属するソフトボールチームの試合に出場することもある。
そんな充実したオフの時間を楽しめるのも、職場への高い満足度がベースにあるのだという。

この病院のスタッフは本当にいい人が多いんです。
これは私の個人的な印象かもしれませんが、感情的にならず、他人の良いところを見つけようとする性格の方が多いなあと思います。
人と関わることが億劫な職場より、仲間を好きになれる職場の方が絶対に良いですよね。
リビングサポーターは病棟に入れば一人だけの職種ですから、入職直後は戸惑ったこともあって、そういうときに他病棟の先輩リビングサポーターがさりげなく声をかけてくれたり、食事に誘ってくれたり、独りぼっちにさせないよう気配りをしてくれました。

先輩スタッフからもらったさりげない優しさを、次の世代に還していきたい。
そう語る田中さんに、最後に訊ねた。
これから青梅慶友病院と出会うことになる若い人たちに、この病院で働くことの魅力をどう伝えますか。

「亡くなったのがこの病院で良かった」
患者様がご逝去された後に、ご家族様からそう言っていただけることが少なくないのですが、そういう病院はおそらく世の中に多くはありません。
いろいろなことがあった人生の最後を「ここで過ごしたい」と選んでくださった方のために豊かな時間を提供する仕事は、自分の人生も豊かにしてくれると思っています。