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「日本語」と「空気」と「世界平和」

わたしは当たり前のように日本語を話すし、当たり前のように読んで、書くことだってできる。今、ここに書いているこの文章も日本語だ。

わたしは大学進学を機に、愛知から京都に引っ越してきた。最初の頃、いちばん不思議に思っていたことが「言葉」だった。
愛知にいた頃にわたしが日常で話していた言葉は、多少の方言があるものの標準語に近いもので、街を歩いたり、学校に行ったりして耳にする言葉も全部それだった。それが京都に来たとたん、周りに溢れる言葉は今まで話してきた言葉とは大きく違っていた。関西弁の独特のイントネーションや、雰囲気、聞いたことがない方言の言葉……引っ越してきた最初の頃は何度も意味を聞き返したり、もう一度話してもらうようにお願いしたりしていた。海外に来たような、とまでは言わないけれど、不思議な感覚だった。

いちばん心に残っているのは、アルバイト先の社員さんに言われた一言だ。
「そのお皿、なおしといて」
お皿は洗ったばかりで綺麗だし、割れてもいないのになにを直せというんだ?と、わたしはお皿を手に持ったまま考えていた。
「なおす場所知らんかった?そこやで」
社員さんの指差す先は食器棚。そこでやっと、この人はお皿を片付けてほしいと言っているのか、と気がついた。

2年ほど京都で暮らしてみて、たくさんの人と関わり、生活に馴染んでいくうちに、あのときの不思議な感覚はほとんどしなくなった。今「そのお皿、なおしといて」と言われたらなんの違和感も感じることなく、食器棚にお皿を片付ける。

言葉は空気のように当たり前に、わたしたちの周りにあって、欠かせないものだ。そして、日本語は地域によって方言という個性を持っていて、場面や相手によって使い分けることもある。それが、それぞれの場の空気を作り上げているように思う。日本語のおもしろいと感じるところの一つだ。

よく、「空気を読む」という言葉を聞く。その場にふさわしい行動を取ることや、その場で自分がすべきこととすべきでないことを把握するというような意味だ。相手の顔色を伺うようなところがあるから、良い意味では取られないこともあるかもしれないし、これこそ日本人的な考え方かもしれない。でも、この「空気を読む」は相手を考える、思いやる気持ちに繋がることもあるのではないかとわたしは考えている。例えば、辛い出来事があったと話してきてくれた友人がいたとする。その友人が泣き出してしまった。そんなとき、今この友人が求めているものはなんなのか、辛い出来事を言葉にして話してくれた訳はなんなのか、そうやって考えて、なにか優しい言葉をかけられるのも、「空気を読む」になるのではないかと思うのだ。

そう考えてみたら、「空気を読む」ことで、相手を考え思いやる気持ちは、人々が平和に暮らしていくために、なくてはならないものであるような気がする。平和というとなにか大それたもののように聞こえるけれど、わたしたちにとっての平和は何気ない優しい日常であること、たったそれだけのことでいいとわたしは思っている。

20年間、日本で暮らしてきたわたしでも、まだ知らない日本語がたくさんある。世界からみたら、日本という国でしか話されていない小さな言葉に変わりないかもしれないけれど、日本語がつくりだす「空気」は世界のどの言語を使う人たちにも通じるものがあるのではないだろうか。

日本語を勉強することはおもしろい。日本語を話すことはおもしろい。欲を言えば、このおもしろさをもっとたくさんの人と共有したい。日本語を知らない人に、この「空気」を知ってもらいたい。そして、これからもわたしはこの空気の中で生きていきたいなと思うのだ。

#精華人文note #エッセイ #日本語