『戯言用心記』#2「非劇は、悲劇ではない説」飽き性の話①
飽き性である。
就職活動のときはそれを逆手に取って「好奇心旺盛です」と吹聴して面接にもぐずり込んでいたが、好奇心旺盛というよりは飽き性である。できれば日々何かしら刺激的な要素があれば楽しいし、スリリングまではいかないにせよ心動かされるものに惹かれるし、少なくとも求めている。
足が何本あったって正しく複数のわらじを履いていればいいものの、どうやら自分は裸足のままタコのように這っているらしい。
ひとつのことをプロ並みに極めることは才能である。当たり前の現実を知ったのは社会人になってから。大学を卒業して、やっと自分の手の中には何もないことに気づく。
そういえば小学生のとき、音楽集会でFUNKY MONKEY BABYSの『ちっぽけな勇気』を歌った。この手のひらの中には何も無いけど…という、あの頃は無邪気で全く分からなかった歌詞の言葉ひとつひとつが干支を一周して己の身に突き刺さる。こんなに恐ろしいタイムカプセルがあるかってんだ。
そうやって生きてきた四半世紀の中で知り得た事、持ち合わせた経験が風化していくのを感じる日々。
そんな自分とは対照的に、確かに積み重ねてきた一枚一枚を綴じて一冊にしている人がいる。風に飛ばされた一枚は気にせず、また新たな一枚を作る人がいる。A4の次にB5を重ねても、いつしかまとまりのある一冊に表紙を付けている人がいる。華やかな装丁ではなく厚みが足りなくても、確かな一冊を持っている人がいる。それらはすべて非売品で、そもそも値など付けられない。
自分はそんな本屋に通って、買えもしない本の背中をただただ眺める。そのときの感情は漱石の語彙をかき集めても形容し難いが、ひとつ言うならば、この年齢でただの一冊も持っていないのは劇的な何かを待って、綴じられずにいるからではないか?
昔から物語を読むのが好きだった。読むだけでは飽き足らず、いつしか拠り所にしていた。当然のようにファンタジックでドラマチックな小説の中で生きたいと思いながら、それが“見本”だと錯覚していた。強い言葉を用いれば、それが無ければ価値がないとさえ思い込んで。
待つだけずっと序章であるというのに。
四半世紀を過ぎてティンカーベルもドラえもんも来てくれず、シェイクスピアも近松門左衛門も加筆してくれないままの人生をどう綴じていけばいいのか。それこそタイムカプセルで今、教えてほしい。
『みんなそうやって劇的なこと欲しがるじゃん?人生にそんな劇的なことなんてそうそうないよ』
この一文を初めて見たとき激震した。
当代きっての噺家から出る言葉とは思えなくて。
飽き性ゆえに、届く範囲で広く浅く興味の種を蒔いている。その過程で蒔いた種のひとつである“落語”が、自分の中で馴染み、じわじわと育ってきた頃のことだ。
とある本で、とある噺家のインタビューを読んだ。
インタビュアーが「噺家になった決定打は?」(意訳)と尋ねた後、訊かれた噺家が「そんなのないよ」と答え、続けて「みんなそうやって劇的なこと欲しがるじゃん?人生にそんな劇的なことなんてそうそうないよ」と。それが、柳家喬太郎師匠のインタビューである。
自分が激震したとは言え、その一文は本の中で特に小見出しにもされていない、ぎっしり詰まった文字列の中の、ほんの一節に過ぎない言葉だったが、それがやけに印象に残った。
それまでの自分は、誰しもが生業の出自に絶対的なドラマを持っているものだと思っていた。特に、子どもがなりたい職業に挙げるような華やかな仕事に身を置く人は、皆そうなのではないかと考えていた。そして、それがあって当然だとも。
だから、インタビューを踏まえて自分から見て少なくとも生業の出自に劇的なワンシーンを持っていそうな喬太郎師がそう答えていたことが衝撃的だった。
それは、もし“劇的なこと”が起きていたとしても特別なものだと捉えない謙虚さと俯瞰した冷静さ。軽い一言の中に、四半世紀生きた自分が持ち得なかった視点があった。
その衝撃を以って、自分の価値観のチャネルが切り替わったように思う。
「非劇は、悲劇ではない説」
ここまで書きつらねてきたように自分と同じような事を考える人間がこの世にどれくらい居るのか。もしくはこんな事を考える人間は自分くらいしか居ないのか。まあ、ずっと何言ってんだこいつ、と思う人はたくさんいそうだが。
何にせよ、これまで“いかにも劇的なことを欲しがっていた”自分は、ようやっと今もなお待ち続けている“劇的なこと”に折り合いを付けられるようになった。折れるようになった紙は柔軟だから、いずれ綴じるときに役立つに違いない。
劇的ではない人生は、全く以って別に悲しくも悔しくも価値が無いわけでもないらしい。もちろん劇的なことがあっても良いと思う。いつまでも変に固執して、だらだら序章を続けて、ただ待っている方が疲れるのは自明だ。
「劇的なことなんてそうそうない」と悟った言葉と出会ったことで、これからの自分の四半世紀は劇的に変わるのかもしれない。
<注釈>
・引用
『柳家喬太郎バラエティブック』(東京かわら版新書)
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